南部アフリカの旅


2015年3月22日(日)〜3月31日(火) 


ケープタウンのテーブルマウンテン 
マンデラさんとケープ半島



南部アフリカの旅1
ケープタウンのテーブルマウンテン 

2015年3月22日(日)-1日目

 成田(18時25分発)→全日空で香港(22時35分着) 時差があるので約5時間

 香港(23時50分発)→南アフリカ航空でヨハネスブルグ(翌日の7時15分着) 約13時間25分

 
夫は38年前に仕事で1ヶ月以上南アフリカに滞在したことがある。成田→香港→スリランカのコロンボ→セーシェル→ヨハネスブルクというルートだった。香港では街をぶらつくほど乗継便までの間があった。コロンボやセーシェルで給油のために飛行機を降りたので、スリランカやセーシェルコインが残っている。若い時だからさほど苦にもしていないようだったが、気が遠くなるほどの長時間。こんな話を聞いていたので「行きたしと思へど南アフリカはあまりにも遠し」と思い込んでいた。

ところが今は香港からヨハネスブルグまで直行便が出ていて13時間余。日本から直行便が飛んでいないヨーロッパの都市に行くのとさして変わりはない。南アフリカとジンバブエとザンビアとボツワナの4ヶ国を回る(左)

メンバーは、夫婦が3組、母子1組、1人参加が6名。北海道、秋田、京都、大阪、嵯峨、奈良、三重など各地から集まっていてバラエティに富んでいる。           <機内泊>

3月23日(月)-2日目

朝7時15分、ヨハネスブルク空港に着いた。夫が言うには「40年前は航空会社のカウンターにいたのは白人だったが、今は全員が黒人だね」。南アフリカでワールドカップが開催されたおかげだろうか、空港は明るくて広い。

飛行機の旅はまだ続き、ケープタウンまで飛ぶ。乗り換え時間は3時間もない。荷物を取ったり広い空港を移動している間に、搭乗時刻になった。

ヨハネスブルグ(10時10分発)→ケープタウン(12時15分着)

昼食は機内で済ましたので、午後1時からバスで観光。まずテーブルマウンテンに向かう。今日から3日間のケープタウンのガイドは日本人の阿部さん。日本語を話すガイドは少ないと思いきや、日本人10名を含め16名もいる。それだけ、日本人観光客が多いのだろう。

もっともここ1年間は、西アフリカのエボラ出血熱やイスラム国の影響で激減しているそうだ。南アフリカと西アフリカは5000qも離れている、空気感染はしないと旅行会社は必死になって風評を否定しているが、人間の思いこみを覆すのは容易ではない。そのせいか、40名で催行することもあるK社のツアーだが、今回は14名しかいない。

ケープタウンは、南アフリカ第2の都市で約90万人が住む。立法府の首都になっている。白人支配が長く続いていたこともあり、ヨーロッパ風の街並みが残っている。この都市は1652年に、オランダ人のヤン・ファン・リーベック船長が補給基地のために建設した。気候がヨーロッパに似ていることもあり発展した。ガイドの阿部さんは「ヨーロッパ人にはケープタウンは憧れなんです」と言っていた。阿部さんもスイスの会社で働いていた時に遊びに来て気に入り、ここに移住して17年になるそうだ。

空港を出てすぐ左手にクグレットという貧民街が見えた(左)。ケープタウンには貧しい黒人が住むタウンシップが4か所あり、クグレットはその1つ。アパルトヘイトの頃、黒人は昼間はケープタウン市内で働けるが、夜になると市街地から出て行かねばならなかった。おのずと黒人だけが住むタウンシップができた。アパルトヘイトが終わった今でも、タウンシップでは電気代や水道代が優遇されていることもあり、黒人の貧しい層はタウンシップに住み続けている。

テーブルマウンテンまでの高速道路は快適だ。アフリカ大陸の高速道路の70%、鉄道の70%は南アフリカにある。つまり南アフリカは、アフリカ大陸の中の先進国なのだ。

車窓から緑豊かなゴルフ場が見えた。ケープタウンだけで10か所もある。南アフリカではゴルフは高級スポーツではないらしい。南アフリカの人が好きなスポーツは1位がラグビー、2位がゴルフ、3位がクリケット、4位がサッカーだという。

ケープタウン大学の医学部の側も通った。1967年に、世界ではじめて心臓移植をした病院として有名だ。アメリカのミネソタ大学で心臓移植の技術を身につけたクリスチャン・バーナードは、アメリカでは宗教上の理由で許可が出なかったので故郷の病院で手術を行い、一躍有名人になった。

いよいよ、テーブルマウンテン頂上行きのケーブルカーに乗る(左)。ガイドブックによると、ここのケーブルカーは天気に左右されやすく、停まることもしばしばある。今日は晴天なので大丈夫。

ケーブルカー観光は1929年に始まっているが、観光客が増えるにつれ輸送能力が追い付かない。それで1997年から、大人数が乗れるスイス製のケーブルカーを導入した。このケーブルカーはユニークだ。床が360度回転するので、どこにいても全方向の景色を楽しむことができる。回転式ケーブルカーはスイスとここにしかない。

テーブルマウンテンの高さは1087mなので、歩いても2時間ほどで上れる。この日も歩いている人がかなりいた。断崖絶壁の岩山の登頂は難しそうに思うが、決められた登山道なら安全だとか。でも日本人の若者が道をそれて滑落死したことがあるので、油断はできない。

私たちはあっけないほどの時間で頂上に到着。少し風が強いが、ケープタウンの街並み、ワールドカップ時に作られた洒落たサッカー場、テーブル湾、ライオンズヘッド、デビルスピーク、マンデラさんが収容されていたロベン島などがよく見えた。オランダ東インド会社の居城だった五角形の城塞も見えた。後でこの城の側を通ったが、五角形は上から見ないと分からないものだ。


 ケープタウンの街並み

 
ワールドカップが行われた
サッカー場

 
デビルスピークと
ロベン島(右上)


黒人の小学生が来ていた。子どもはどこの国でも無邪気だが、彼らは底抜けに明るい。カメラを向けると、はじけるような笑顔でポーズをとってくれた。ありきたりのピースなどではなくカッコいいポーズだ。服装も持ち物も小ざっぱりとしていて、良い階級の子どもたちだという。「顔つきを見ても違うでしょう」と阿部さんに言われてしまった。このように黒人の中でも貧民街に住む層と裕福な層の格差社会が出来ている。マンデラさんが望んだような理想的な国にはほど遠いらしい。

山を下りる頃には雲が出てきた。頂上が真平に見えるのでテーブルマウンテンと言うのだが、そこに雲がかかった状態をテーブルクロスという。ケーブルで降りてきた山を見上げると本当に白いテーブルクロスを敷いたように見えた。

次はテーブルマウンテンの裏手にあたるカーステンボッシュ植物園にバスで向かった。この植物園も含めケープ半島は、世界6大花王国の1つだ。花のベストシーズンは8月半ばから10月半ばなので期待はしていなかったが、9000種もの植物が栽培されているので、ところどころにきれいな花園があった。南アフリカ国花のキングプロテアも蕾(左)を見せていた。いろいろな種類があるというプロテアが一面に咲きそろっている様は、想像しただけで明るい気持ちになる。でも花を第一にすれば、他の観光が犠牲になる。すべてにとってのベストシーズンを選ぶのは難しい。

この植物園は、イギリス人のセシルロードが自分の土地を寄付したことに始まる。ロードさんは若いころ兄を追って金鉱目的でここにきたが、みんなと同じことをやるのは面白くない。発掘者が金鉱から出る水に困っていると聞き、水揚げポンプを発明して莫大な財をなした。結婚しなかったので遺産はすべて寄付。広大な住まいはケープタウン大学になり、今もその建物が使われている。

割と早めにケープタウンのホテルに入った。横浜の自宅を出てから何時間経過したか計算しても始まらないが、やっと風呂に入ることができる。 ホテルのエレベーター前には常に警備員が立っている。部屋の階数を告げると彼がボタンを押してくれる。少し不便だが安心ではある。     
           <ケープタウンのHEERENGRACHT FORESHORE 泊>    (2016年7月16日 記)

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