行きあたりばったり銅像めぐり
 17回

 林子平

 林子平を知っている人は少ないかもしれないが、仙台藩では有名人だ。ちなみに、ゆとり教育で非常に薄くなった中学の歴史教科書(日本書籍)にさえ、写真入りで載っている(右)。伊達政宗や支倉常長は載っていないのに、彼の名はある。

 教科書の記述。「仙台に住んだ林子平(1738〜93)は、海岸の防備の必要を説く『海国兵談』を出版したため、松平定信に罰せられた。」

 
松平定信は寛政の改革で、幕府を立て直そうと必死だったが、彼を罰したところをみると、大局的な見方が出来ない人だったのだろう。

 
ヨーロッパやロシアの動向を知っていた子平は、海岸防備の必要性を、『海国兵談』と『三国通覧図説』の中で説いた。しかし、「いたずらに世間を惑わすものだ」として版木を取り上げられ、兄の家に蟄居させられてしまった。

 彼の死後4ヶ月でロシアのラクスマンが、60年後にペリーが来日している。先見の明があったという他ない。蟄居中に亡くなったが、もう少し長生きさせてやりたかった。自分の説が正しいことが、実証されたのだから。

 当時は墓碑を作ることさえ出来なかったが、数年後に赦免された時に、甥が建てた。墓は、仙台・北山の「龍雲院」にある。実家から割と近いので、行ったような気もするが、もちろん覚えていないし、写真もない。今度仙台に行った時には、支倉常長の墓と共に、訪ねてみたい。近くには、子平町という町名も残っている。

 林子平のレリーフを見つけたのは、博物館の裏手。訪れた9月6日には、宮城野萩が咲き誇っていた。(左)

 右写真の構図は、教科書の図とそっくり。真似て作ったものと思われる。説明には、「林子平は名を友直、六無斎と称し、仙台の川内に住み、寛政の三奇人のひとりで、憂国の先覚者であり、早くから海防を力説した」とある。

 私の実家は川内にあったから、がぜん親近感がわいたが、どのあたりに住んでいたものやら。住んだと言っても、蟄居していた兄の家かもしれない。実家の住所は川内三十人町、足軽が住んでいた町だ。林子平の父は浪人の身だったが、子平の姉が伊達宗村の側室にあがったことから、兄が藩士に取り上げられた。兄や姉はともかく、弟の身分は低かったに違いない。

 「六無斎」は、彼が辞世に口ずさんだと言われる。「親なし 子なし 妻なし 版木なし 金もなければ 死にたくもなし」。彼の著作の版木は、幕府に没収されてしまった。6つの中では、これがいちばん残念だっただろう。

 「三奇人」の他のふたりは、高山彦九郎と蒲生君平。なぜ、奇人と言う名誉ある呼び名をもらったのか知らない。ついでに言うと、同じ勾当台公園にある「谷風」は、「寛政の三力士」と言われた。他のふたりは、小野川と雷電である。谷風と林子平は、ほぼ同時代の人物。

 ところで、左の林子平像が、勾当台公園付近にあることを、ネットで知った。勾当台公園は、すでに「谷風」の項で書いているが、県庁の前庭みたいなもので、繁華街にも近い。その辺りをぶらついたのに、見逃してしまった。この子平像には、奇人の面影がない。レリーフ像の方がまだ、奇人に近いような気がする。

 「日本の銅像探偵団」なるHPを出している「ヒロ男爵」さんが、検索のうえ、「HARUKOの部屋」にたどり着いてくれた。日本全国の銅像を網羅しようと張り切っている。すでに500体以上の銅像が掲載されている。投稿歓迎ということで、私も彼の「銅像ギャラリー」に、いくつか持ち込んだ。

 宮城県の部で、松代屋重五郎さん提供のこの銅像を見つけた。早速許しをもらって、載せることができた。「御宿 松代屋重五郎」のHPは、銅像以外に、城を歩く、日本史人物伝も載せている。

 私は、銅像に興味があるというより、国内の旅行記を書くために、銅像を焦点に置いたに過ぎない。だからマニアックなものとは、ほど遠いが、ヒロ男爵さんや重五郎さんは、よく集めていて感心してしまう。2人ともハンドルネームがいい。本名ずばりの私は、今更変更するわけにもいかず、もうちょっと気の利いたものにすべきだったと悔やんでいる。

 この2人以外にも、「銅像めぐり」をしている人が大勢いることを知った。日本全国の同じような仲間とやりとり出来るのも、ネットのおかげである。数年前には思いもよらない世界である。老後の楽しみがひとつ増えたことは間違いない。(2003年10月9日 記)

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