行きあたりばったり銅像めぐり
 20回

 吉野ヶ里のひみかちゃん

 佐賀の銅像3回目は「吉野ヶ里のひみかちゃん」(右写真)。「ひみか」は、卑弥呼(ひみこ)から取った名ではない。なぜその名がついたか?後で述べることにする。

 前回の有田同様、銅像ではないが、シンボルがないと、このシリーズは始まらない。前日は武雄温泉に泊まった。神功皇后もつかったという古い温泉で、「武雄焼き」という唐津焼きに似た窯元もたくさんある。

 JRの「武雄温泉」から佐世保線で「肥前山口」。長崎本線に乗り換え、吉野ヶ里へ向かった。佐賀の女性は人なつこくて親切だ。東京から来たというと、「よくもまあ!」と、歓迎してくれる。首都圏から2泊3日ニッキュッパで九州旅行が出来るご時世。珍しくもないだろうと思うが、ローカル線に乗る旅行者は、希なのかもしれない。空に浮かぶ気球の話、佐賀の美味しい食べ物など話はつきない。

 吉野ヶ里遺跡に近い駅は、「神埼」と「吉野ヶ里公園」の2つある。どちらからも同じ距離だが、正面入り口に近いのは「吉野ヶ里公園」。「神埼」駅前には、とてつもなく背の高い「卑弥呼」ばりの像が立っていた。銅像ウオッチャーには、こちらの方が良かったが、気づいたのは列車出発後。帰りも駅のロッカーに荷物を預けるので、神埼には戻れない。

 降りたのは私たち以外には年輩の夫婦だけで、観光地の駅にしては寂しい。自家用車と観光バスの時代なのだ。それでも、構内にはNPOの売店があり、土産物を売ったり、周辺の整備をしている。

 左写真は、モダンな吉野ヶ里公園駅と、満開のコスモス。春は菜の花、夏はヒマワリ、秋はコスモスと季節ごとに植え替えているそうだ。

 駅前ばかりでなく、コスモスは道すがらずっと続く。色づいた稲穂と三色のコスモスのコントラストは、遺跡までの15分が短すぎると思えるほど、きれいだった。


 コスモスを観賞しながらのんびり歩いていたら、路上にこんなマンホールがあった。あまりにきれいなので、撮ってきた。私がマンホールに目覚めるきっかけになった写真だ。地域の吉野ヶ里にかける意気込みが伝わってくるではないか。

 吉野ヶ里遺跡は弥生時代後期の遺跡。「歴史を訪ねる旅」シリーズで詳しく書く予定なので、今回は遺跡そのものの写真や説明は省くが、「魏志倭人伝」の邪馬台国の記述にそっくりの遺構が発掘されたので、大騒ぎになった。邪馬台国の所在地は、大和説と九州説に分かれている。九州設を唱える学者は、「これぞ邪馬台国だ」と勢いをつけたが、確たる証拠はない。

 1988年に発掘調査が発表されるや、2ヶ月半の特別見学期間中だけで100万人以上が押し掛けたという。私は1990年に訪ねている。卑弥呼饅頭や卑弥呼の里なる呼び名が一人歩きしていた。「邪馬台国だと決まってもないのに、卑弥呼なんておかしいよ」と、夫にだけは、ブツブツ言っていたが、まあこの程度はやるだろうなと、内心では商魂のたくましさに感心していた。

 1992年の閣議で、国営の歴史公園として整備される事が決まった。公園の一部が開園したのは2001年4月。まだ2年半前の施設だ。国の史跡ともなれば、願望や推測で「邪馬台国」や「卑弥呼」の名は使えない。さすがに、今回は「卑弥呼饅頭」は影も形もなかった。

 入り口に立っているのは「ひみかちゃん」の像(右上の写真)。朝早くて空いていたせいか、ぬいぐるみの「ひみかちゃん」に、抱きつかれてしまった。中に入っているのは、男の子かな。女の子かな。大学生のバイトらしいが、オバサンに抱きつくサービスは、仕事とはいえ、お気の毒。

 卑弥呼と間違えるようなマスコットだが、住民の公募で決めたという。東背振村の「ひ」、三田川町の「み」、神埼町の「か」を取って、「ひみか」にした。遺跡はこの町村で囲まれている。これでは文句もつけられまい。上手なネーミングにウーン!ガイドが「ひみかちゃんは男ですよ。聖徳太子と同じ、みずらに結ってますからね」と、卑弥呼の真似だと言われるのを事前に制していた。

 以前来たときより、格段に建物も遺跡も整備されてしまい、発掘されたばかりの生々しい感動は伝わって来ない。その代わり、広場では石器づくり、石包丁を使っての稲穂のつみ取り、薫製づくりの実演があり、建物内部も公開している。弥生時代の生活がビジュアルに復元されている。個人的には、廃墟や発掘そのままの方が好きだが、こちらのほうが分かりやすいことは確かだ。

 左写真は、古代米を乾燥しているところ。蕎麦も白い花をつけていた。写真では見慣れているが、実物の花は初めて見た。
 
 訪れた10月19日前後3日間は、特別期間で入場料が無料だった。知らないで来ただけに、嬉しさは格別だ。400円の節約のみならず、普段は公開していない建物の内部に入れたことが大きい。

 縄文の遺跡・三内丸山を訪ねた時に、ついでに立ち寄った旧青函連絡船「八甲田丸」の見学は、海の記念日に当たっていたので、フリーパスだった。「歴史を訪ねる旅」はどうやらついている。古墳時代、飛鳥時代・・の旅も、なにがしかお得なことがあるかもしれない。

 おまけにスタンプラリーの抽選で、私は特等が当たった。特等と言っても、佐賀のみかん30個ぐらい。1等は古代米少し。他は覚えてないが、Nちゃんは小さなバッジ、Kちゃんは何も当たらなかったので、みかんとは言え、非常にラッキーだった。広い園内を2時間以上歩き回った後だったので、ジューシーな甘さが、ことのほか美味しく感じた。(2003年11月7日 記)

 神埼駅を通過するときに、「卑弥呼像」らしきものを見かけた・・」と、ここに書いたところ、像を検索してくださった方が2人もいた。掲載している方のお許しをもらったので、右写真をごらんいただきたい。指さしている方向に遺跡がある。

 18歳まで神埼で育った方が、吉野ヶ里を紹介しているHPの中にある。彼女は、高校時代に、吉野ヶ里遺跡発掘の功労者七田氏の父上・七田忠先生(神埼高校日本史教師)と、付近の古墳巡りをなさったと言う。(2003年11月19日 記)

 この像の正式名称はなんだろう?すぐ飛んで行ける場所でもないので、神埼町の役場にメールで問い合わせてみた。今日12月8日、次のような回答をいただいた。やはり「卑弥呼」の名がついていた。

 お尋ねのJR神埼駅北口広場に設置しております銅像の名称は、「卑弥呼像」と名付けております。この像は、吉野ヶ里歴史公園西の玄関口として、神埼町を訪れる方々やJRの乗客へのアピールと町のイメージアッを目的に、2001年4月に新設しました神埼駅北口の開設と併せて設置いたしました。
 ご指摘のとおり、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという確証があるわけではありませんが、吉野ヶ里遺跡は、その学術的価値とともに弥生時代の遺構が、まさに魏志倭人伝に記された邪馬台国を彷彿させてくれるなど、来訪者に邪馬台国へのロマンを感じさせてくれます。そして、その邪馬台国の象徴が女王卑弥呼ではないかと考えます。
 神埼町では、この像を眼にされることにより、邪馬台国をイメージし吉野ヶ里遺跡を見ていただきたいと考え「卑弥呼像」と名付けた次第です。ご理解の程、宜しくお願いします。

                     佐賀県神埼町 神埼町役場  都市計画課

(2003年12月8日 記)

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