行きあたりばったり銅像めぐり
 3回
 R・Hブラントン

今回の銅像めぐりは、R・Hブラントン。一度も耳にしたことがない人物だから、彼に会いたくて出かけたわけではない。「行きあたりばったり銅像めぐり」を思いついてからは、どこに出かけるにも、デジカメを持ち歩く習慣がついた。

 6月14日(土)に、横浜スタジアムへ横浜・中日戦を見に行った。ベイスターズが弱い昨今、タイガースとジャイアンツ戦以外は招待券が回ってくる確率が高い。バックネット裏という絶好のチケットをもらったので、夫と二人で冷やかし観戦に。

  JRや市営地下鉄の「関内」から徒歩2〜3分にある横浜球場は、知る人ぞ知る、日本野球発祥の地である。1896年に日本初の野球公式試合(旧制一高対横浜の外国人チーム)をやった場所だ。ゲーリックやベイブルースが試合したこともある球場なのだ。

 戦後はゲーリック球場と呼ばれていたこともあったので、彼の銅像があるかもしれないと、球場の回りを歩いてみたが、みつからない。受付に聞いても「そんなものは見たことがない」。

 銅像めぐりに興味がない夫には「席に座っていていいわよ。ビールでも飲みながら、練習を見てて」と言い残し、銅像ウオッチャーと化した私は、横浜公園をぶらつく。横浜公園は、1876年に、日本初の洋式公園として開園。6300uの広さに、スタジアムと日本式庭園がある。チューリップの時期は、見事な色彩で埋め尽くされる。横浜には、「日本初の洋式・・」というのが、やたら多い。たかだか150年の歴史だから、開港にちなんだこのキャッチフレーズしかないのだ。

 公園をぶらついて巡り会ったのが、ブラントンさんである。いかにも英国紳士という風貌だが、説明を読むと、やはりイギリス人だった。

 明治元年(1868年)、政府の招聘により来日した英国人土木技師R・Hブラントンは、開国にともない日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり、活動の拠点にしていた横浜では、日本大通りや・・・・(途中すり切れて読めない)・・近代的なまちづくりに大きな足跡を残しました。(原文のまま)

 ちなみにブラントンをネットで検索したら、かなりの件数が載っていた。30余も設計している「日本灯台の父」だという。灯台の父の銅像がなぜ、横浜公園に?開港直後は、港崎遊郭(みよざきゆうかく)だったこの地を公園に作り替えたのが、このブラントンなのである。女性には、遊郭より公園の方がいい。ホッ。

 この公園には、他に二つの銅像らしきものがあった。ひとつは、「心の像」というもの。面白くもなんともないが、健全系の銅像だ。

 もうひとつは、噴水の側にあり、水道の歴史を刻んでいるらしいのだが、ご覧のように、ホームレスの住処になっていて説明すら読めない。水瓶にちょこんと座っているのは、誰だろう。瓶の中に頭を入れれば、眠りにつくことも出来るかも知れない。それなりに良い家だが、ウオッチャーが、近寄れないのは残念だ。

 野球の結果は言わずもがな、ベイスターズの大敗。結果的に9連敗したが、この日は6連敗目の日だった。

 ベイスターズファンなら、この投球フォームを見て、おわかりだと思うが、川村である。

 序盤は、このようにベイスターズが勝っていたのだ。勝っている間に、スコアボードを撮っておいたのは良かった。一応私も横浜市民だから。ベイスターズのエース三浦の家は、徒歩5分の所にある。(2003年7月記)


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