(北山田だより223号-2006年10月号-より抜粋) 箱根の「強羅花壇」で食事をした時に「ここは閑院宮家の別邸だった」と耳にしました。「閑院宮なんて聞いたことないな」と思いましたが、「そうなの」と話を合わせました。 程なく、ご近所にお住まいの歴史学者(某大学名誉教授)に会った時に「今の天皇家の祖が閑院宮家だということを知っていましたか」という話になりました。「へえ〜そんな話、初耳です。閑院宮家すら最近名前を耳にしたのですから」「明治天皇の3代前の光格天皇は、閑院宮家から入った方ですよ。その前の後桃園天皇に男の子がいなかったからです。今の天皇家は、閑院宮家の血統。万世一系でもなんでもありません」。 太平洋戦争前までは側室が制度化されていたこともあり、母親が正室でないまでも、天皇になる方は、父親が天皇もしくは天皇の兄弟だと思いこんでいました。 「こんな面白い話は、みんなに、お裾分けしなきゃ」と、少し調べてみました。歴史学者がおっしゃっていたことは、天皇家の系図(左)にも記されていて、秘密でもなんでもなかったのです。手元にある「日本史年表-三省堂-昭和40年版」を引用したので、昭和天皇が今上天皇になっています。 江戸中期の儒学者・政治家の新井白石が、皇統の断絶を危惧して「徳川将軍家に御3家があるように、皇室にも世襲親王家が必要だ」と建言したそうです。 118代後桃園天皇が22歳の若さで崩御したときに、お子さんは内親王1人。そこで、閑院宮家の典仁親王の第6王子・兼仁王子が跡継ぎになり、119代光格天皇として即位しました。閑院宮家は光格天皇の祖父が初代だから、創設したばかりの宮家です。 この際と思い、天皇年表をじっくり見たところ、飛鳥・奈良時代ばかりでなく、江戸時代にも2人の女帝がいたことを知りました。109代の明正天皇は、徳川秀忠の娘・東福門院和子と後水尾天皇との間に生まれた息女。江戸幕府の朝廷政策として知られていますが、117代の後桜町天皇も女性だったのです。 閑院宮家はその後どうなったか。明治時代に跡継ぎがいなくなり、伏見宮家から親王を迎え、閑院宮載仁(ことひと)親王になりました。陸軍大将にまで出世して、亡くなった時は国葬。靖国神社「遊就館」の額は、載仁親王の筆だそうです。 1988年と言えば、「たより」を発行した年。わずか18年前ですが、大ニュースとして報じられた覚えはありません。すでに皇室を離脱していたからでしょうか。時代が違うとはいえ、父親は国葬でした。今の皇室の祖に関係ある方にしては、寂しい最期だったような気もします。 他の世襲親王家のその後ですが、有栖川宮家は、皇族の養子が禁止されたので、大正時代に断絶。桂宮家も明治時代に断絶。伏見宮家だけが、皇室は離脱していますが、現在も存続しています。 こうして見てくると、跡継ぎがない「お家断絶」は山ほどあります。他家から跡継ぎを迎えた例もたくさんあります。スキャンダルも離縁も兄妹喧嘩もあります。下々はもちろんのこと、他の宮家にもザラにあるように、天皇家の場合も、そうなったらそうなったでよろしいのではないかと、常々思っています。天皇家だけが離縁もスキャンダルもお家断絶も許されないのは、むしろお気の毒でなりません。(2006年10月21日 記) |