日本史ウオーキング

  20. 藤原不比等(奈良時代)

  「藤原不比等は、日本史に登場する政治家の中でも、一二を争う辣腕家だった」と唱える専門家は実に多い。それにしては、日本書紀などに不比等の記述は少なく、捉えがたい人物のようだ。

 歴史家にもはっきり姿を現さない人物が、私の手に負えるはずもないのだが、日本史ウオーキングの項目に不比等を書かないわけにはいかないと思いこんでしまった。不比等関連で訪れた所は、不比等の邸跡(法華寺)と彼が建立した興福寺だけ。なんとも心細いウオーキングになったものだ。

 不比等が生まれたのは659年だが、日本書紀に初めてその名が見えるのは、持統天皇3(689)年。亡くなったのは、「日本書紀」が完成した養老4(720)年。飛鳥時代から奈良時代初期に活躍した。

天皇系図  中臣鎌足の次男に生まれた不比等は、11歳のときに父を亡くした。天智天皇も、その3年後に亡くなった。乙巳の変(大化の改新)の中心人物2人が亡くなり、壬申の乱で近江朝廷が敗北。ここで、藤原氏は歴史の表舞台から姿を消してしまっても仕方ないところだ。

 ところが、不比等は幼少から山科の田辺家に預けられていて、壬申の乱の時はわずか14歳。壬申の乱後に処罰されずにすんだのは、鎌足と生活を共にしていなかったからだろう。当時は「史」という名であり、比べ並ぶ者がいないという意味の「不比等」の名は、平安時代につけられた。

 そして、31歳のときに、持統天皇の側近として歴史書に登場する。それまでの人生を伝える史料はないようだ。

 左の天皇の系図は、不比等が活躍した時代と重なる。「8世紀は女帝の世紀」と言われるように、奈良時代7代(43代から49代)のうち4代が女帝だ。不比等が関わりを持った女帝は、持統・元明・元正・孝謙・称徳と実に多い。

 女帝は、巫女としての役割をはたした、男系の直系相続を確保するための中継ぎだったの説もあるが、上田正昭京大名誉教授は、藤原氏の血脈と政権の拡充に関係があったと強調している。(「古代日本の女帝」)

 ここで言う藤原氏の血脈と政権の拡充にかかわったのが、藤原不比等に他ならない。なにしろ、天皇の后は皇族出身という決まりを破って、自分の娘を聖武天皇の后にしてしまった。奈良から平安にかけて長いこと栄華を誇った藤原一族の基礎は、不比等が作ったと言える。

 2008年2月10日の東京新聞と中日新聞に「書き換わる聖徳太子像」という社説が載った。聖徳太子が実在しなかったことは、歴史学者の間では常識だと聞いているが、新聞の社説に載った意味は大きいと思う。万世一系は、持統天皇と藤原不比等の構想によって成った・・と、かなり踏み込んだ事も書いている。要約を下記に抜粋するが、わかりやすい社説なので、ぜひ全文を読んで欲しい(社説をクリック)。

近代の実証的歴史学の結論は「聖徳太子はいなかった」が決定的らしい。聖徳太子は日本書紀によって創作された。

日本書紀は養老4(720)年完成の最古の正史で、編纂過程で律令体制の中央集権国家が形成された。その日本書紀成立に重要な役割を果たしたのは藤原不比等である。

万世一系は、子孫を皇位にと願う持統天皇のあくなき執念と藤原不比等の構想によって成った。


 私が習ったころの古代史は、「日本書紀」の記述によるものが多かった。しかし、歴史書が時の為政者に都合の良いように書かれるのは、今も昔も変わらない。日本書紀も奈良時代初期に意図的に作られた。

 不比等はなんとしても親の鎌足、ひいては藤原一族の名誉を守りたかった。蘇我馬子の業績を消したいばかりに、聖徳太子なる人物を作り上げねばならなかった。蘇我氏を大悪党に仕立てないことには、蘇我入鹿を刺した鎌足や天智天皇の行為は非難される。小さい頃に聞いた大化の改新は、正義の味方・中大兄皇子と中臣鎌足が、横暴をふるっていた蘇我一族を滅ぼしてメデタシメデタシという風だった。しかし今では、蘇我馬子の業績は高く評価されている。

 日本書紀の内容を、巧妙に仕上げていった藤原不比等の手腕には恐れ入るとしか言いようがない。

 覆面政治家の不比等の面影を探すのは難しいが、2005年3月と12月の2回にわたる奈良の旅で、法華寺・不比等の邸跡を訪れた。平城宮に隣接して邸があったことからも、権力の大きさがわかる。法華寺は不比等の邸あとに、不比等の娘で聖武天皇后の光明皇后が建てた。聖武天皇が建立した総国分寺の東大寺と同じく、光明皇后が建立した総国分尼寺の法華寺は、大伽藍だったと言われる。今は当時の壮大さはないが、桃山時代再建の本堂や「から風呂」がある。あまり訪れる人もなく、境内はひっそりしていた。

不比等の邸跡 法華寺本堂 法華寺境内図
不比等の邸跡に建てられた法華寺。 法華寺の本堂。 法華寺の説明板。「から風呂」の復元もある。

 ちなみに、長屋王の邸も朱雀門のすぐそばにあった。長屋王の邸跡は、1988年の発掘で見つかった。甲子園球場の1.5倍と非常に広い。5万点以上の木簡が見つかり、ビッグニュースになったことは覚えている。木簡の解読で、奈良時代の最高貴族の実態を知ることになった。

 平城宮跡を歩いている時に、ヨーカドーマークが見えた。そこが長屋王邸跡だと知ったのは、近くに行って説明のプレートを見てからだ。私の家の近くにあるヨーカドーに比べて豪華だなと思ったが、それもそのはず。もともとはデパートの「そごう」ビルだったが、そごうが撤退してヨーカドーの店舗に変わったのだった。1300年前の貴族の邸あとに、スーパーマーケットが建っている。

 長屋王(684〜729)は、いわゆる長屋王の変で自殺を強いられた。長屋王の謀反を告発する者があり、藤原宇合(うまかい)らが邸を取り囲んだ。宇合(うまかい)は不比等の息子・藤原4兄弟のひとり。こうして藤原一族は、反対勢力を退けていった。

 高校の修学旅行でも興福寺を訪れている。一緒に歩いているのが高校時代の友人なので、「あの時は五重塔の上まで登れたんだけどね」など思い出を語りながら、不比等が建立した興福寺境内を端から端まで探索した。阿修羅像がある国宝館ばかりに足を向けがちだが、境内を歩き回るのも悪くない。
 
 鎌足の私邸だった山科寺を、大和に移して厩坂寺。平城遷都の時に、不比等が壺坂寺を移して興福寺とした。藤原氏の氏寺だが、藤原氏の勢力が増大するにつれ、平安・鎌倉・室町時代には政治を動かすほどの力を持った。明治の廃仏毀釈で荒れ果てたが、今は平城遷都1300年の2010年に向け、中金堂や南大門の再建や整備が進んでいる。

長屋王邸跡 興福寺境内図 興福寺五重塔
長屋王邸あとに設置されている説明プレート。 興福寺境内図 猿沢の池から見た興福寺五重塔
(2008年4月25日 記)

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