99回 人気度で一二を争う銅像は、上野公園にある西郷隆盛像(左)だ。「西郷さん」「西郷どん」と呼ばれていることからも、人気のほどが分かる。 今まで書かなかったのは、あまりにも知られていて「いまさらなあ〜」と思うからだ。でも銅像めぐりも100回寸前。2011年に行った鹿児島の銅像と共に書いてみたい。 幕末・維新で活躍した偉人はたくさんいるが、最期が悲劇的だったせいか、西郷隆盛の人気はダントツである。「単なる田舎侍。大局的な考えなど持っていなかった」という学者もいるが、ここでは追及するつもりはない。 日本人が親しみを感じるのは分かるが、なぜか外国人にも人気がある。彼らの様子を見ると「絶対にここでは写真を撮らなきゃ」という意気込みを感じる。各国のガイドブックに、どんな風に書かれているのだろうか。 隆盛が新政府で実権を握っていた明治4年〜6年頃は、廃藩置県、徴兵制度、学校制度、太陽暦採用などなど近代日本の礎が出来たときと重なる。ところが、明治10年の西南の役で新政府に反旗をひるがえす。 隆盛の銅像建立の機運は早くからあったが、なんといっても逆賊。その汚名が解かれたのは、明治22(1889)年。大日本帝国憲法発布の大赦で、正三位を与えられた。それがきっかけで銅像建立が呼びかけられ、全国25000人以上が寄付をしたという。銅像は高村光雲作、犬のツンは後藤貞行作。 明治31(1898)年の除幕式には総理大臣山縣有朋、勝海舟、大山巌、東郷平八郎ら800名が参加した。この像がある辺りは、今でも東京にしては広い空間があるが、それにしても800名が集まったとなると、ギチギチだったろう。 西郷没後21年の除幕式の時には、糸子夫人は健在だった。「主人はこんな人ではなかった」「浴衣で散歩などしなかった」と驚いたという。しかし散歩姿を作ったのではなく、苦肉の策として、腰に藁の兎罠をはさみ(左)、兎狩りに出かける姿を考えたらしい。 いずれにしても、明治の元勲にしては奇妙な恰好である。恩赦されたとはいえ、元反逆者の朝敵。皇居前広場に作る案は反対された。陸軍大将軍服の騎馬像も反対された。銅像めぐりをしていて面白いなと思うのは、銅像が時の政府によって翻弄されるさまを知ったときだ。その意味で西郷隆盛像は興味深い。 西郷隆盛に関する碑(左)が、元薩摩藩の田町の屋敷跡に建っている。JRの田町駅、都営地下鉄三田駅の近く。勝海舟と会談している小さなレリーフもおまけのようについている。
3つ目の像は、城山の洞窟近くに建っていた。誰がいつ建立したものか調べそこねたが、「鹿児島にはいたるところに像があるなあ」と感心しながら写真におさめた。土産物屋の店先でも、西郷どんが客を迎えていた。 九州新幹線の終点「鹿児島中央駅」から5分も歩くと、倒幕で活躍した薩摩藩士の生誕地が固まっている。下級武士の屋敷があった加治屋町には、西郷兄弟、大久保利通、大山巌、東郷平八郎などが住んでいて、遊び仲間でもあった。鹿児島は米軍の空襲を何度も受け、加治屋町もやられている。だから当時の面影は残ってないが、「○○の跡」の案内板を見ながら維新の道を歩くだけでも楽しい。 下の3つ目の写真は、城山の展望台に上る途中にある洞窟。ここで最後の5日間を過ごした後に自刃した。西南戦争の中心になった私学校の跡地や銃弾跡なども残っている。鹿児島を3日間歩き回ったおかげで、鹿児島における彼の人気度を肌で感じることができた。でも、人物像に迫れたとは言えない。
鹿児島市内で目にした銅像は数知れない。銅像マニアにとっては、短時間でたくさんの銅像が収集できるオイシイ土地なのだ。私が撮ってきただけでも、英国留学生の群像、東郷平八郎、大久保利通、小松帯刀、天璋院(篤姫)、島津斉彬、島津久光、島津忠義、五代友厚などなど。他にフランシスコ・ザビエルの上陸地ということで、ザビエル像もあった。これは90回銅像めぐりで取り上げた。 他の人物も、そのうちに取り上げるかもしれないが、西郷隆盛ほどの存在感はなさそうだ。書いている最中に、2018年の大河ドラマは「西郷(せご)どん」に決まったというニュースが流れた。鹿児島はさらに盛り上がるのだろう。 (2016年9月9日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ ホームへ |