バルト3国の旅 1
2015年6月29日(月)-1日目
10時半(成田発)→JALで14時50分(ヘルシンキ着) 約10時間20分の飛行
ヘルシンキまでは、ヨーロッパ便最短距離。「シンデレラ」と「風のライオン」の2本の映画を見て、2回の食事をしているうちに着いてしまった。
福岡空港経由が8名いたので、ツアー仲間全員と会ったのはヘルシンキの空港だった。30人の多所帯と聞いていたので鬱陶しいのではないかと心配したが、結果オーライ。
「同じコースがもう1組出ています。バッジの色も同じなので気をつけて」と添乗員が言う。集客力が多いH交通社ならではだろう。
今年はバルト3国の人気が高いそうだ。イスラムテロの可能性が低い、ヨーロッパ各国を行きつくした人がバルトに行ってみようか、物価が安いなどの要因が考えられる。3国ともユーロを導入したので、両替の面倒からも解放される。
バルト3国とはうたっているが、たいていはヘルシンキやポーランドやロシアがちょっと入っているツアーが多い。このツアーは前後にヘルシンキの観光が入っている。往復ともヘルシンキとエストニアのタリンを結ぶフェリーに乗るからだ。(コースは左)
フェリー出港まで4時間以上あるので、2時間ほどヘルシンキフリータイムがあった。10年前に来ているので「なんとかなるだろう」と下調べをしてこなかったので、集合場所近くの繁華街・エスプラナーディ通りや公園やマーケッを散策して時間をつぶした。ヘルシンキにしては異常気象で30度以上あったが、風があるので心地よい。
19時半(ヘルシンキ発)→タリンクシャトルで21時半(タリン着)
ホテルに着いたのは10時を回っていたが、まだ明るい。<タリンのパークインホテル泊>
6月30日(火)-2日目
申し込んでから気づいたのだが、今回のコースはバルト3国のなかを行ったり来たりする。エストニア→ラトビア→リトアニア→ラトビア→エストニアという具合。そうでなくても3国の違いが分かりにくいのに、行ったり来たりが拍車をかける。
バルト3国は、バルト海に面しているいずれも北海道より狭い小国。北からエストニア・ラトビア・リトアニアと並んでいる。私は国の頭文字をとって「エラリ」と覚えた。以前はソ連邦の一員だったが、1990年にリトアニアが、1991年にエストニアとラトビアが独立を宣言した。3国ともNATOとEUに加盟。ユーロは今年2015年に最後に残っていたラトビアも導入した。ヨーロッパの一員である。
今日はエストニアの首都タリンからラトビアの首都リガまで移動する(上の地図参照)。タリンの見学は後日。430qも走るので、見学場所はエストニアのタルトウだけだ。ガイドの案内で市内を回る。ガイドの英語を添乗員が通訳する。1時間のガイド中に通訳で時間がとられるので、印象的な話は聞けない。でも、天気が良くて緑豊かでゴミ1つ落ちてない街の散策は楽しかった。
ラエコヤ広場で有名な「キスの噴水」を(左)見る。有名なという表現はガイドが使っているからで、私には初耳。こんな事がこれ以後も続く「この人は有名な詩人です」と銅像の説明をしてくれるが、聞いたこともない人物の銅像を撮ってもしようがない。銅像ウオッチャーの私も、バルトの国では1枚も撮らなかった。
ラエコヤ広場から聖ヨハネ教会へ。内部はけばけばしい装飾がない。この簡素さからプロテスタントの教会だと分かる。エストニアはプロテスタントのルター派が多いそうだ。
400年の歴史を持つタルトウ大学の外観を見る。6本の円柱がある白っぽい建物や教授達を壁に描いた建物はユニークだ。大学のキャンパスは学生がいると面白いが、夏休みなので学生の姿を見かけなかった。
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タルトウの街にはこうした壁画が多い
右奥に見えるのが大学
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タルトウ大学の壁面
教授たちがいる!
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次に朽ちた煉瓦と青空のコントラストが絵になる旧大聖堂(左)を見た。宗教改革でカトリックの聖堂が破壊されたまま今にいたっている。ほとんどの国民がプロテスタントルター派を信じているとはいえ、修理ぐらいすればいいのに。もっとも一部は大学の博物館。
フリータイム後、バスに乗り込む。バルト3国には高い山がないと聞いていたが本当だ。車窓から見える景色は白樺などの林、牧草地ばかり。羊や牛の群れがいないから単なる雑草地かもしれない。
途中、エストニアとラトビアの国境を越えたが、道路に白線が引いてあるわけでもない。2011年までは3国とも別な通貨を使っていた。ひょいと隣の国に行く場合、お金はどうしていたのだろ。
ラトビアに入国後、日本では加藤登紀子が唄って大ヒットした「100万本のバラ」の原曲を聴かせてくれた。もとはラトビアの曲で原題は「マーラが与えた人生」。ラトビアの苦難を表した曲だという。
首都・リガのホテル到着は8時半をまわっていたが、太陽がまぶしい。 <リガのデイズホテル泊>
7月1日(水)-3日目
今日はリガの観光後、バウスカに寄り最終的にはリトアニアのヴィリニウスまで移動する(上の地図参照)。走行距離は300q。
ラトビアの首都リガは13世紀からハンザ同盟の港町として繁栄。街全体が世界遺産である。バルト3国中で最大の都市で「バルトのパリ」と言われる垢抜けした街だ。8時半頃から始まった街歩きの時は、ダウンコートを着てもちょうどいいぐらい寒かった。
まず新市街のアルベルタ通りにあるユーゲントシュティール様式の建築の数々を見学。19世紀から20世紀に流行した新建築様式である。ユーゲントシュティールは、アールヌーボーのドイツ語。ユーゲントシュティール様式建築を18棟も手掛けているのが、ミハエル・アイゼンシュタイン。その息子が「戦艦ポチョムキン」の映画で有名な監督セルゲイ・アイゼンシュタインである。芸術の才能は遺伝するらしい。「戦艦ポチョムキン」の中でもっとも有名なシーン「オデッサの階段」ロケ地をウクライナで数年前に見ているので、父子と聞いて嬉しくなった。
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ユーゲントシュティール様式のビル
装飾が華やか
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これもアイゼンシュタインの作
ユーゲントシュティール様式のビル
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次はドイツのツエペリン型飛行船の格納庫を移築した中央市場に行った。生鮮食料品ばかりでなく雑貨や衣料も売っている庶民の市場。ヘルシンキの市場に比べ、イチゴもサクランボもずっと安い。北欧の物価高は有名だが、対岸にある3国の物価は割安だ。
次は旧市街へ。おりしも大型のクルーズ船が着いたらしく、異常に混み合っていてゆっくり見学できない。観光客がいない朝夕に歩いたら良い街だろうなと思いながら、ガイドの後に従う。リガが ドイツの影響が強いハンザ同盟の都市だったことを感じる箇所がいくつもある。
ブラックヘッドの ギルド会館にはハンザの4都市(リガ・ハンブルク・リューベック・ブレーメン)の紋章が浮き彫りになっている。リガ以外の市はドイツの都市だ。ブレーメンの音楽隊の像は、ブレーメンにあるのと同じ。大聖堂も聖ペテロ教会も13世紀にドイツの司教が建立。ドイツ騎士団の支えになっていた教会。この街は13世紀から18世紀までは城壁で囲まれていた。唯一残っているのがスエーデン門だ。スエーデンの兵舎が近くにありスエーデン兵がよく利用したのでこの名がある。屋根にネコがのっている「猫の家」には、ラトビア商人とドイツ商人との確執を示す逸話が残っている。
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ギルド会館
4つの紋章が浮き彫りになっている
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ドイツのブレーメンにあるのと同じ
ブレーメンの音楽隊像 |
猫の家
ラトビア商人とドイツ商人の確執
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こんな風にドイツの影響が強かったラトビアだが1935年に独立。しかし第二次世界大戦ではドイツの空襲を受けた。そして第二次大戦後はソ連に組み込まれた。いろいろな国に支配され翻弄されてきた小国の悲哀が垣間見える。
旧市街での自由時間にちょっとした事件が起きた。80歳を過ぎた同行女性が迷子になって食事のレストランに現れなかった。旧市街は広くはないが、たくさんの小路がある。行き違いになったら探しても無駄だ。ところが、予想に反してラトビアの警察は優秀だった。街角のカメラに写っている日本女性を探し出してくれたのだ。世界遺産街並みをゆっくり拝見とはいかなかったリガだが、忘れられない都市になった。
昼食後70qほど走り、バウスカに着いた。ここにはロシアのアン女王の愛人、ビロン伯爵が建てたルンダーレ宮殿がある。アン女王の次はエカテリーナ2世が援助したというだけあり、ロシアのサンクトペテルブルクで見た宮殿とよく似ている。
それもそのはず、サンクトペテルブルグの冬の宮殿を手掛けたイタリア人による建築で1768年完成。カメラ代がとられるので、撮影は夫にまかせた。こういう宮殿はきれいではあるけれど、カメラ代を払ってまで撮りたいような被写体ではない。天井も壁面も肖像画もベッドも家具も食器類も豪華だが、いずれも大同小異。(下の写真)
この後230q走り、リトアニアのヴィリニウスのホテルに着いた。まだ3日目だというのに、ヘルシンキ、エストニア、ラトビア、リトアニアと4ヶ国目である。
エストニアが北海道の60%、ラトビアが北海道の80%、リトアニアが北海道の80%と狭い国なのに、このあわただしさについていくのが大変だ。 <リトアニアのヴィリニウスのエコテル泊> (2016年10月2日 記)
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