バルト3国の旅 2
 

2015年7月2日−4日

当たり前だが、バルト3国は別々の顔を持っている。大雑把に言うなら、エストニアはデンマークやドイツの、ラトビアはドイツの影響を受けているが、リトアニアはポーランドの影響を受けている。

同じキリスト教でもエストニアとラトビアはプロテスタント(主にルター派)教徒だが、リトアニアはカトリック教徒が多い。ソ連邦に入っていた頃の3国は宗教が禁じられていた。熱心な信者は、どんなにかつらかっただろう。

実際に行って来た自分がややこしいのだから、読んでくださる方はもっと分かりにくいだろう。今日はリトアニアにいる(バルト3国の旅1の地図参照)。午前中は、街ごと世界遺産に指定されているヴィリニウスの旧市街を歩いて見学した。ネリス川とヴィリニャ川の合流点に出来た街。

ヴィリニウスにある28のカトリック教会の元締めである大聖堂へ。ポーランドとロシアとリトアニアの3聖人の像が飾ってある。(左)

ヴィリニウスは14世紀の終わりには事実上、ポーランドの一都市だった。第一次世界大戦後は各国の争奪戦のあげくポーランドが占領した。そして第二次大戦後はソ連に支配された。各国の聖人が飾ってあることからも複雑な国家だということが分かる。


大聖堂前に2つの足形があった(左)。1989年8月23日の「人間の鎖」を記念したモニュメントだ。ラジオで呼びかけたところ、エストニアのタリンからリトアニアのヴィリニウスまで全長600qを200万人が手をつないだ。ソ連からの独立を願う3国国民共通の思いの結晶である。3国がソ連の支配から抜けたのは、人間の鎖から間もなくである。

大聖堂の近くにある丘の上のゲティミナス城にリフトで行った。19世紀にロシアによって破壊されたが、監視塔だけが残っている。今は王宮を建設中。監視塔からの市内の景観は素晴らしい。ヨーロッパではおなじみのオレンジ色の瓦屋根がつらなっている光景は何度見ても飽きない。

 
ゲティミナス城に行く途中の丘で

 
監視塔から見たリガ市内


外観だけ眺めた聖アンナ教会は、1812年に攻め込んだナポレオンが「フランスに持って帰りたい」と言ったほど趣のある教会だ。形の違う33種の煉瓦を使っているゴシックの傑作。煉瓦造りというと、同じ形の煉瓦の組み合わせが多いが、形の違う煉瓦を使う事で繊細さと美しさが増す。

次に寄ったのはアンバーミュージアム。アンバーってなんだろうと思ったが、スペルはamberで琥珀のことだった。本物の琥珀は軽いので10%の食塩水に浮くという実演もしてくれた。琥珀のネックレスは母が何十年も前のソ連旅行のときに買ってくれた。あまり使ってないが、これを機会に使ってみよう。

この街には16世紀の城壁があり門も10個あったが、今は城壁も門もない。唯一残っているのが「夜明けの門」である。門の上が礼拝堂になっているが、素通りしただけ。

次に行った聖ペテロ・パウロ教会は、忘れそうもない。バロック様式の内部は、イタリアの彫刻家や地元の職人が彫った2000体もの聖人や天使や聖書や神話の登場人物の彫刻で飾られている。金銀など使わず白い漆喰彫刻のオンパレード。祭壇の前の空間に吊ってある船のランプ(左)は、ペテロが漁師だったことにちなむ。

昼食はボルシチと水餃子。水餃子はリトアニア名物だが、まあまあの味。

2時半頃、30q離れたトラカイ(バルト3国1の地図参照)。トラカイ城は、14から15世紀にリトアニア公国の大公がドイツ騎士団から身を守るために建てた。カルヴァ湖の小島に建つ城。城の内部見学は止めて、城を1周して水辺で遊ぶ子供や、くつろいでいるカップルの写真を撮った。


トラカイ城へ向かう橋 

 
カルヴァ湖とトラカイ城


スコットランドのキルトを着ている2人に会ったので「去年の夏にスコットランドに行った」と話しかけ、しばしスコットランドの話で盛り上がった。「グレンフィディックのウイスキーの工場も見た」と言ったら、「日本のニッカも素晴らしい」という話になった。

夕食時、今日一日病院で過ごしたIさんと話す。Iさんはお姑さんと参加していていちばん若いが、初日から咳をしていた。昨日今日は連泊なので観光はパスして、市内の病院で診てもらった。英語もロシア語も達者な才女だから自力で病院に行けたが、こんな人はめったにない。病院の費用は保険で賄えるとしても、通訳の人がいるかどうかも分からない。外国で病気にならないよう気をつけねば。「ここの病院の対応は素晴らしかった。アメリカよりずっと親切。昼食も豪華」と彼女はご機嫌だった。      <リトアニアのヴィリニウスのエコテル泊>

7月3日−5日目

今日のバス移動は395q。カウナスとシャウレイを経て、ラトビアのリガまで行く。リガの宿泊は2日目に続いて2度目。ほんとに変なコースだ。

出発前にホテル付近を1時間ほど散歩。ホテル付近には近代ビルが建っている。複数のビルがガラス窓に映る洒落た写真を何枚か撮れた(左)。朝日に照らされているおかげだ。今日も上々の天気。

 
複数のビルが写りこんでいてきれい!
 
早稲田大学が建立した杉原千畝の記念碑

日程表にはない杉原千畝記念碑に寄ってくれた。後述するが杉原千畝氏ゆかりの地はカウナスだ。ヴィリニウスは関係ないと思うが、卒業した早稲田大学が、大学創立100周年の2001年に建立。桜の木も植えてあった。

110q離れたカウナスに着いた。カウナスは、杉原千畝氏が赴任した1940年ころはリトアニアの首都だった。だから見どころは多い。

まずカウナス城(左)。十字軍の攻撃を防ぐ目的で作られたというが、外観を見ただけである。

城から市庁舎までの道を「ここは、雷神ベルクーナスを祀る自然信仰の場所なんです」とガイドは説明した。樫の木製の十字架が雨ざらしのまま建っていた。

市庁舎広場には自転車のオブジェが飾ってあり、ハンザ同盟の旗が翻っていた。大聖堂はカトリックだけあり、エストニアやラトビアで見た聖堂より華やかな雰囲気だ。

日本人にとってカウナス観光のハイライトは杉原千畝記念館だ。高級住宅街の静かな高台にある(左)。

よく知られているように、杉原氏が外交官としてリトアニアの日本領事館に赴任したのは1939年10月。第二次世界大戦開戦後のヨーロッパの情勢を探る諜報の役目だった。

1940年7月27日、大勢のユダヤ人が日本の領事館を囲んだ。リトアニアは、悪名高いアウシュビッツ収容所があるポーランドの隣国。ドイツによるユダヤ人追放後、ユダヤ人にはシベリア鉄道から日本を経て新大陸に行くしかなかった。

新大陸に渡るために必要な日本の通過ビザを求めて、たくさんのユダヤ人が押しかけた。杉原氏は外務省の「ビザを発給してはならない」という回答を無視してビザを発給し続けた。ユダヤ人を見殺しには出来ないという人道的判断で、6000人のユダヤ人の命が救われた。後に、その時のユダヤ人と感動の再会をはたしている。

よく考えると、このビザ発給には疑問点がたくさんある。

1つ目、ユダヤ人を助けた行為をなぜドイツが咎めなかったのか?ビザ発給の直後に日独伊三国同盟を結ぶほど繋がりがあったドイツの意向を無視したのに、咎められなかった。

2つ目、シベリア鉄道に乗るユダヤ人をソ連がなぜ阻止しなかったのか?

3つ目、ユダヤ人はソ連のハバロフスクから敦賀に上陸。「ビザを発行してはならない」と命じた日本国は上陸を許している。敦賀から横浜や神戸に移ったユダヤ人のことは、当時の日本の新聞にも出ている。なぜ上陸が許されたのか、そして限られた期間とはいえ、温かく迎え入れたのか?

4つ目、杉原氏はリトアニアからベルリンに向かった後に、チェコスロバキア、東プロイセン、ルーマニアで外交官の職務を全うしている。日本に帰ったのは終戦後。本省の命令に背いてビザを発行した人物を、引き続き勤務させたのはなぜか?

5つ目、終戦後にビザ発給の責任を問われ外務省を罷免になったのはなぜか?杉原氏はロシア語が完璧で、現地人と間違えられるほどだった。もちろんソ連の事情通。こういう経歴が邪魔になったとの見方もあるが真相は定かではない。

 
ビザを書き続けた執務室
 
展示してあるビザ
昭和15年8月の記述がある

旅行前に奥様の幸子さんの手記を読んだか、疑問は解消されなかった。現地に行けば分かるかなと期待したが、ビデオと部屋をさっと見ただけで集合時間。でも75年前の現場が残っていて記念館になっているだけで幸運かもしれない。ビザを書き続けた執務室の椅子に座って写真を撮ることもできる。日本人の若い男の子がいたので「あなたはここで何をしてるの?」と聞いたら「たまたま手伝っているだけです。ここの大学に留学しているんです。杉原さんの事件を知ってここの大学を選びました」     (2016年10月16日 記)

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