ウズベキスタンの旅3 
 宗教・人種・コミル君

宗教

宗教はイスラム教スンニ派。イスラム教は主にスンニ派とシーア派に分かれるが、ほとんどの国がスンニ派である。シーア派の主な国はイラン。

私はイスラム教徒が多い国が好き(あくまで旅行先としての好き嫌い)で、これまでにイラン・モロッコ・チュニジア・エジプト・トルコ・シリア・ヨルダン・レバノン・カタール・イエメン・マレーシア・インドネシアなどを訪れた。ラマダン時の昼間、一切飲食しない姿も見た。旅行者にすら偽アルコールしか出してくれない国もあった。

でもウズベキスタンでは、ほとんどイスラム教を感じなかった。あくまでも8日間の滞在に限った話ではあるが、スカーフを被り胴着を身につけている女性は観光地にはたくさんいたが、タシケントなどの大都市では少なかった。胴着も伝統のアトラス織という虹をイメージした矢絣風のが多く(下の写真)、とても華やかだ。顔を隠す黒衣のヒジャーブ姿は1人も見なかった。お酒も男女の交際も自由らしい。同じシーア派のイランなどでは結婚式さえ男女別々の部屋で行っていたが、ここでは同じ部屋でやっているそうだ。

 
サマルカンドのグリ・アミール廟で
 
タシケントのナボイ劇場前の公園で



イスラム教を受け入れたのは8世紀。ブハラは、サーマーン朝のとき(9世紀後半から10世紀)にイスラム世界の中心だったほど栄えていた。これほどの歴史を持つにしては、今のウズベキスタン人が熱狂的なイスラム教徒のようには思えない。ソ連に占領されていた時代は原則として宗教が禁じられていたので、イスラム色が薄められたのかもしれない。学校ではコーランの授業はないそうだ。

 
日本が他の国にどのように紹介されているか知らないが、主な宗教は仏教と書いてあるに違いない。でもほとんどの日本人は寺には葬式か法事しか行かない。京都・奈良・鎌倉の寺のような観光寺ともなると大勢がつめかける。ウズベキスタン人にとって、モスクはもはや観光の対象でしかないのかもしれない。

もっともコミル君は、年に一度はティムール一族が眠るグリ・アミール廟(左)に家族そろって行く。何度か行けばメッカに1度行ったと同じご利益があるらしい。

「僕もメッカには行きたいけど、まずは両親に行ってもらう」と言っていたから、イスラム教をないがしろにしているわけではなさそうだ。私は熱心な仏教徒ではないが、お寺があればお賽銭をあげるぐらいのことはする。仏教が日常生活に染み付いていることたしかだ。ウズベキスタン人にとってイスラム教は、そういった存在なのだと勝手に想像した。

人種

ウズベキスタンは中央アジアの中心国と言われる。アジアと聞くと黄色人種の顔を思い浮かべるが、肌の色も目の色も日本人や韓国人や中国人とは似ていない。肌が白く目がパッチリの可愛らしい子どもが多い。


 サマルカンドのグリ・アミール廟で会った
お祖父さんと孫 得意そうなお祖父さん


ブハラで朝の散歩時に登校の女の子に会った。
礼儀正しくておしゃれ 双子だという
 

統計ではウズベク系78.4%、ロシア系4.6%となっているが、いろいろな国に囲まれ、シルクロード時代だけでも多様な人種が行き交った。120を超える民族が混在していると言うが、どういう顔がウズベク系を指すのかも分からなかった。

コミル君はイランで会ったガイドによく似ている。「先祖はソグド人だからペルシャ人と似ていますよ。僕はペルシャ語も話せるし」とのことだ。アイヌを除けば長いこと単一民族だった日本では考えられないような民族の混在が、この国にはある。

ガイドのウスマノフ・コミル君

初日にサマルカンドの空港に出迎えてくれたコミル君は、最終日のタシケント空港までガイドしてくれた。ヨーロッパなどの場合は人件費が高いからか、スルーガイドはいないが、アジアの場合はスルーガイドが多い。変なガイドだったらアンラッキーでしかないが、コミル君は人柄もよく日本語も堪能。欲をいえば、個々の建造物には詳しいが、ウズベキスタンの悠久の歴史の説明が足りなかった。いろいろな人種に翻弄されたり有利に立った時期があったはずだが、その説明が物足りなかった。でもトータル的には愛すべきガイドだったので、タシケントの空港では皆が別れを惜しんだ。

ツアーの場合は庶民の生活を知る機会はめったにない。ガイドを通してしか知るすべがない。彼は1985年にサマルカンドで生まれた。ソ連から独立した時は6歳なので、ソ連に占領されていた頃の様子は両親の会話からしか分からない世代だ。「お父さん達はソ連から解放されて喜んでいますか」と聞いたら「もちろんです。僕のように自由に外国に出られるようになったのも独立のおかげです」

 
 
2日目サマルカンドでののコミル君
この日は寒かった
 
コミル君の名刺 ガイドしてもらいたい人は
ここに連絡するといい 帰国後にメールしたら
すぐ返事がきた


最終日タシケントでののコミル君
だいぶ暖かくなってきた

サマルカンド外国語大学で日本語を学んだ。親切に教えてくれる日本人の先生のおかげで上手になり、大学卒業を待たずに日本の国士舘大学の町田キャンパスに留学。留学費用は父が出してくれたが、2年目からは得意な語学(英語・ロシア語・ペルシャ語)を生かして、免税店などでアルバイト。歩合制だったので高収入を得ることが出来た。国士舘大学を卒業後は自動車を輸出する会社などで働いていたが、母の希望もあって帰国。

4人目のお見合いで結婚した彼女との間にそろそろ子どもが生まれるとか、毎日奥さんのおのろけを聞かされる。スマホで結婚式の写真を見せてくれた。レギスタン広場で写真撮影をし、結婚式のパーティーには500人も集まったという。「費用もかかるけど、お祝い金もたくさんもらうから」との話。

「日本にも彼女がいたんじゃないの」と聞いたら「いたんですけど別れました」とのこと。友人5人は日本人と結婚しているそうだ。去年はその友達の結婚式のために鹿児島に行ったとか。サマルカンドの大学の卒業を待たずに留学したので、帰ってから残りの単位をとって卒業。2つの大学を卒業した頑張りやさんだ。

日本には2007年から2016年まで9年間いた。帰国後は父親と相談して今のガイドの職に就いた。添乗員が「ウズベキスタンではガイドは高給取りのエリートです」と補足した。でも彼は一生、ガイドをするつもりはないようだ。社交的なうえに数ヶ国語が出来る、日本人との人脈もある。なんらかの事業をしたい夢を持っている。奥さんが幼稚園の先生なので、そのうち幼稚園を経営したいという話もしていた。こんなに楽しそうに将来の夢を描いている若者が日本にはいるのだろうか。

コミル君は33歳にもなるのに、日本への留学もガイドの仕事を選ぶにも、父親に相談したそうだ。戦前の日本のように家長の意見が絶対なのだ。しぶしぶ従っているわけでなく、家族に愛情を感じていることが話の端々から分かる。

新婚の彼が住んでいるのは親の家だ。弟一家(夫婦と赤ちゃん)が4部屋、コミル家が3部屋、両親が2部屋だという。間取りを書いてくれるはずだったが、忘れてしまったのかくれなかった。でも真ん中に大きな庭と共同スペースがあり、食事は原則としてみな一緒。食事担当は弟のお嫁さんとコミル君のお嫁さん。以前はお母さんが作っていたが、母は開放されたようだ。「お嫁さん同士や姑さんとの喧嘩はないの」と聞いてみたが「ほとんどないよ」との事だった。それぞれが大家族での生活を大事にしていて、些細なことには目をつぶっているのだろう。

60歳の父と57歳の母は年金をもらっている。年金が早いのはソ連時代の名残だろうか。今年から年金年齢が63歳と58歳に引き上げられたが、両親は前の制度が適用されたのでラッキーな世代。父は年金をもらっても個人タクシーを経営している。「お金持ちなのね」と言ったら「金持ちではない。サマルカンドの中レベル」の答えだったが、車関係の仕事をしているとはいえ、自宅に車が2台ある。ちなみに平均給与は日本の10分の1ほど。車は180万円から500万円。車を持つのは容易ではないと思うが、それにしては街にはたくさんの車が走っている。実態経済はわからない。     (2019年10月16日 記)

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