| スロベニア・クロアチアの旅4 2004年8月15日(日) -6日目 8時半にスプリットを出発。車窓からは、右にアドリア海、左はところどころに湖。バスの右側が断然きれいだが、左側しかとれなかった。途中で少しだけ席を替わってくれた人がいたので、有り難かった。 1時頃ドブロヴニクに近いレストランで昼食(ペンネのトマトソース、サラダ、ティラミス)
母が日本人としても、父親の名をなぜ名乗らないのだろう。姓も名も漢字だ。「どうしてお父さんの姓を名乗らないの」「ボクは東京で生まれたのですが、その時にはもう父がいなかったので、父の顔を知らないんですよ」。まずいことを聞いてしまったなと思ったが、屈託がない彼は続けた。「母は小さいボクを連れてヨーロッパを旅していました。ドブロヴニクで宿を探しているときに、今の父に出会ったんです」。
城塞の入り口にある爆撃地図の説明から始まった。セルビアの攻撃で被害を受けた地点に三角印がついている。三角印は数え切れないほど多く、住民は避難したので、一時は廃墟だったという。しかしユネスコの援助により、復旧は早かった。今は落ち着いた旧市街だが、屋根を見ると修復した部分は真新しくて情緒がない。 城塞入り口のピレ門には、守護聖人の聖ブラホの像が立っていた。聖ブラホは私には馴染みがないが、ドブロヴニクにとっては大切な聖人らしく、彼を祭った聖ブラホ教会もあった。門のすぐそばにオンファリオの大噴水。天然水で飲むと美味しいというので、ペットボトルに入れて持ち歩いた。なにしろ暑いし、人も多い。すぐ水が欲しくなる。
フランシスコ会修道院は、14~15世紀に建設。現存の建物は大地震後の再建だが、中庭は当時のままだという。1317年に開業したクロアチア最古の薬局があり、陶器のきれいな薬壺が棚においてあった。 大聖堂は17世紀にバロック様式で再建された。宝物館には貿易で栄えていたことの栄華を示す金細工がたくさん展示してあった。聖ブラホの手の骨、足の骨がその形をした金細工のなかに収められていた。
なぜ内戦が起こったのか?当時の日本では、カトリックとセルビア正教とイスラム教の争いが根底にあると言われたものだ。しかしTK君によれば「ユーゴは社会主義でしたから基本的には宗教は禁止だったのです。だから宗教が争いになるはずはない。上層部の権力闘争だった」。 そういえば、同じようなことを、トルコの大学生に聞いたことがある。トルコを旅している時に、そこから近いバルカン半島では、殺し合いがあった。「どうして宗教や民族の違いであそこまで争うの」。「宗教でも民族でもありませんよ、権力争いだ」と当たり前のようにガイドは語った。 彼ははこうも続けた。「チート(クロアチアではチトーとは言わない)が、ひとつの国に作る前は、もともとセルビアが強かったのです。チートがいる間はまとまっていましたが、彼の死後、セルビアが威張りだしたんです」 「チート時代の方が経済的に豊だったのです。先日投票したら、社会主義時代の方が良かったと言う人が85%もいました。クロアチアには失業者が多いですよ。でも助け合いの精神があるからか、乞食はいません」。彼の言う話がどこまで真実か判らない。現に首都のザグレブでは、赤ちゃんを連れた若いお母さん乞食を2人も見かけた。表面的には、街のたたずまいは綺麗でしっとりしている。身なりもこざっぱりした人が多いだけに、乞食がいたのにはびっくりした。 7時からホテルに近いレストランで夕食。(シーフードスープ、魚のタルタルソース、サラダ)。今日はめずらしくドライバー、添乗員、TK君が一緒のテーブルについた。これまでドライバーの話が聞けなかったが、今日は通訳がいるので話を聞けるチャンスだ。 「内戦の時は戦ったのですか」「ええ、セルビアの国境付近で、兵士の輸送をしました。直接戦ったわけではないけれど、前線で運転していたので、怖かったですよ」と60歳近いドライバーは語った。がぜん親しみがわいてしまった。やはりコミュニケーションをはかるには、身振り手振りだけでは無理だ。 <ドブロヴニクのティレナ・ドブラーヴァホテル泊> スロベニア・クロアチアの旅1へ ホームへ |