| ポルトガルの旅 10 リスボンのホテルを朝出発したバスは、途中シントラの宮殿を見学してロカ岬へ。帰途はカスカイの港に寄るなどしても、昼にはリスボンに戻っていました。リスボンから近いのです。 ポルトガル2週間の旅で、青空が見えなかったのは、ロカ岬だけでした。この日が曇りだったのではなく、ホテル出発時はいつものように夏空が広がっていたのに、岬に着いたとたん、空は曇るは、強風が吹くは。観光バスが数台あることを除けば、荒涼感といい、断崖絶壁といい、まさに地の果てでした。 自分では絶対に買いませんが、ツアー代金に含まれています。自力で到達したなら、多少の記念になりますが、バスに乗るだけで簡単に到着。「到達証明書もないもんだ」と、ブツブツ。 カリグラフィーなので重々しく見えますね。2002と26の数字や名前は手書き。2002年8月26日の訪問でした。訪問者101282人目の記述も、証明書を買わない人もいるのでいい加減なものです。 このフレーズが刻まれている塔(左写真)は、事務所と売店があるだけの寂しいロカ岬では、唯一のモニュメントです。 話のついでに、途中立ち寄ったシントラについてちょっと。ここは長崎の大村市と姉妹都市。1584年の8月下旬に、天正の少年遣欧使節が、シントラに招待されています。九州の大名・大村純忠らが少年を遣わしたことからの、姉妹都市提携です。 シントラは、夏の避暑地として王侯貴族に愛された町です。王宮は、14世紀にエンリケ航海王子の父・ジョアン1世が建築。マヌエル1世が大々的に増築しました。写真の2本の円錐形は台所の煙突ですが、町のシンボルになっています。 ここは、1584年8月10日に一行の船が投錨した港町。長崎出発は1582年ですから、途中マカオ、マラッカ、ゴアに寄ったとはいえ、2年以上かかっての到着でした。 12時間で着く今でさえ、13歳の子供が親を離れてヨーロッパに行くなどめったにないこと。当時の航海技術では無事にたどりつく保証もなかったのです。カスカイスに投錨したときの少年たちの気持ちは、いかばかりであったことか。 彼らの悲劇は帰国後。出発はバテレンを保護した信長の時でしたが、帰国した時には、バテレン追放令を出した秀吉の天下になっていました。ローマ法王に謁見したとなれば、世が世なら大変な名誉なのに、まるで罪人扱い。皮肉というか哀れというか。 (2003年12月15日記) 感想・要望をどうぞ → ポルトガルの旅 1へ 次へ ホームへ |