母が語る20世紀
 

1.はじめに

 私の母・安積房子は、1914年6月8日に、加藤英重・テツの次女として生まれた。年号で言えば大正3年生まれだが、年齢を数える時は、西暦の方がわかりやすい。もうすぐ90歳である。右写真は90歳直前の母。6人目の曾孫に目を細めている。

 母は、生年月日を聞かれると、必ず西暦で答える。質問した方は、咄嗟には年号に換算できずに困っている。役所の書類はなぜか年号を使っているので、若い人ほど戸惑いを見せる。

 年号を使わないことに、思想的背景があるとは思われない。私が想像するに、母の両親が、日常的に西暦を使っていたのではないだろうか。祖父母は、母が生まれる直前まで、アメリカのカリフォルニアで暮らしていた。貿易の仕事をしていたと聞いている。5歳上の母の姉は、カリフォルニアの州都・サクラメントで生まれたので、幼児期は英語の方が得意だった。

 祖父・加藤英重は、大学卒業直前に退学して、アメリカに渡った。明治32年頃の左写真には「英重22歳、サンフランシスコにて」の裏書きがある。左端が祖父。明治時代に、アメリカに渡った日本人の中に祖父がいたことは、私には驚きだ。KOKUSANSHAというローマ字が見えるが、この写真では、何を扱っている店かわからない。なぜ卒業を待たずに渡米したのか。いきさつは追々書いていくつもりだ。

 母は、横浜の港付近で生まれた。帰国後も貿易の仕事をしていたので、横浜住まいが都合良かったのだろう。「アメリカの匂いのする倉庫」で、「青い目の人形」で遊んでいたという。「書生さんに連れられて山下公園を散歩した」「伊勢佐木町でトシさんに焼き芋を買ってもらった」など話しているところをみると、書生やねえやがいたらしい。

 母は、父の死2年後に、次女である私の横浜の家に、言い方は悪いが、転がり込んだ。かれこれ8年になる。仙台から都会への移転は、環境が激変し、体調を壊すだろうの心配は杞憂に終わった。ふるさとに戻ったようなものなのだ。

 父母の本籍は60年以上、東京都渋谷区代官山町10番地だった。当然、私たちきょうだいも、結婚するまでの本籍は代官山。父母が結婚生活をはじめたのが、代官山の同潤会アパートだったからである。そこには1年ぐらいしか住まず、昭和12年から仙台住まい。にもかかわらず60年以上、本籍を変えなかったのは、東京に戻るつもりだったのかもしれない、東京に愛着があったのかもしれない。いずれにせよ、母が最晩年を首都圏で暮らすことに、なんら違和感はないはずだ。

 私は、自宅から徒歩10分の大学に通っていたので、ブラブラしている時間が他のきょうだいより多かった。母の昔話に耳を傾ける機会が、少なからずあった。思いもかけず、またもや母と過ごすことになり、耳にタコもあったが、初めて耳にする仰天話もあった。平凡な人生を送ってきた私にくらべ、母の前半生は華やかで、教科書に出てくる有名人との関わりも二三あったのである。

 仰天話を、私が独り占めするのは勿体ない。誰かが記録しなければ、貴重な話は消えてしまう。母に書くことを勧めたが、その気がなさそうなので、私が書き留めることにした。聞き書きは、自分がその場にいないので、臨場感や迫力に欠けるが、仕方がない。

 「母が語る20世紀」は、いささか壮大過ぎる題だが、20世紀のほとんどを生き抜いてきた庶民の思い出を、綴るに過ぎない。関わりのあった人物を中心に、ほぼ年代順に、書いていくつもりだ。ただし、ボケかかっている母の話だから、思い違いがあるかもしれないので、出来る限り裏付けはとった。当時の新聞や資料に目を通し、現場に足を運んだ。その部分は、私が見たことなので書きやすい。

 母は、関東大震災と仙台空襲の2大災害に遭遇した。両方とも中途半端な被害ではなく、家が全焼したので、実に運が悪い。でも、家族の誰もが死んでいないのは、運が良いと言えなくもない。

 そんなこともあり、残っている写真や手紙類がきわめて少ない。それは、私たち子ども4人にも言えることで、特に昭和19年生まれの妹は、5歳位までの写真が1枚もない。

 母の写真でいちばん古いのが左写真。大正6年とある。母3歳、伯母8歳。「目玉のふーちゃん」と呼ばれていたころの面影がある。

 ところで、母90歳の祝いをするために、子ども夫婦が4月24日に日光の金谷ホテルに泊まった。69歳の兄をはじめ、皆年寄りの部類だが、いくつになっても母から見れば子どもには違いない。右はその時のケーキ。ろうそくが9本。

 金谷ホテルの資料を展示してある「金谷の時間」には、母と縁が深いアインシュタインの原稿コピーが展示してあった。(右下写真)。卆寿祝い後に、「母が語る20世紀」で、母とアインシュタインの出会いをアップするつもりにしていたので、その偶然に驚いてしまった。

 展示には、次のような説明がついている。

 「大正11年12月4日から6日、金谷ホテルに宿泊しました。・・・日光で過ごした二日間が唯一仕事からはなれた休めた日々だったようです。アメリカのプリンストン大学に残されている『日本における私の印象』の原稿は、日光滞在中に金谷ホテルの便せんに書かれています」。

 ドイツ語の細かい字で書いてあるので、内容はわからないが、たしかに金谷ホテルの便せんだ。偉人に使ってもらうと、思わぬ宣伝になるものだ。後日、この原稿の訳文を読んだが、日本訪問を素直に喜んでいる。

 物理学者アインシュタインは、1922年(大正11年)11月17日に来日した。そのアインシュタインに、小学生の母が会っている。詳細は、次の「母が語る20世紀 2、アインシュタイン」までお待ちいただきたい。数日後に書きたいと思っている。(2004年5月4日 記)

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