2. アインシュタイン  

 幼児期を横浜で過ごした母だが、小学校入学時には東京に移っている。祖父が貿易業を親戚に譲り、横浜を引き上げたらしい。女学校卒業の頃まではそこに住んでいたので、詳しい住所を覚えていてもよさそうなものだが、芝区の愛宕山の下ということしか記憶にないと言う。今は芝という区は存在しない。昭和22年に、赤坂区、芝区、麻布区が合併して港区に変わってしまった。
 
 母がアインシュタインに会ったのは、家から近い鞆絵(ともえ)小学校2年の時。大正11年に、アインシュタインは、理科の授業参観で来校した。

 右地図は、昭和56年発行の東京都地図。紫色の四角い囲みが、母が通っていた鞆絵小学校。右に目を移すと、愛宕神社がある。放送博物館もある。地下鉄日比谷線の神谷町と虎ノ門の中間点だ。

 鞆絵小は、明治5年の学制発布の時に出来たいちばん古い学校である。文部省にも近い。

 だが、当時の新聞広告(左)を見ていて、訪問校に選ばれた理由が他にもあることがわかった。彼を日本に招いたのは「改造社」という出版社だが、会社は東京芝区愛宕下町にある。鞆絵小にも母の家にも近い。

 改造社は、大正時代に一世を風靡した総合雑誌「改造」を発行していた。アインシュタイン招請を社長の山本氏に強く勧めたのは、京大の西田幾太郎教授と、東北大の石原純教授だった。しかし講演お知らせには、「通訳 理学博士 石原純」となっている。

 主題から少しはずれる。アインシュタイン来日当時、石原博士は、東北帝国大学教授を辞職している。歌人・原阿佐緒との不倫恋愛が、前年・大正10年に、大々的に新聞に報じられたからだ。来日当時は、渦中にいたことになる。

 原阿佐緒は、宮城県黒川郡宮床村に素封家の一人娘として生まれた。明星派の与謝野晶子に師事するが、のちにアララギ派に属した。歌集を4冊も出しながら、スキャンダルが先行しているのは、少し残念だ。阿佐緒は、私が3年生まで通った吉岡小学校に在学し、高校(当時は女学校)も大先輩である。生家が、「原阿左緒記念館」になっているので、今度訪ねるつもりだ。

 NHKの「事件記者」で、べーさんを演じていた俳優の原保美は、阿佐緒の次男。原保美は、事件記者を演じていた頃に、石原純の息子に声をかけられたことがあり、感慨深かったと話している。晩年の阿佐緒は、保美と同居していた。

 さて、アインシュタインと母とのことだが、どんな理由か知るよしもないが、母のクラスに授業参観に来たのである。担任の教師が優秀だったのかもしれない。

 「先生がね、『蛙は、飛んでいる蚊もそのまま飲み込んでしまいます』とおっしゃったの。今思えばバカな質問だけど、『蚊に刺されたらかゆいでしょ。蛙は、蚊を飲み込んでも、お腹がかゆくないんですか?』と、私が聞いたのよ」と母は話す。「先生がどうお答えになったか忘れてしまったけれど、すぐ傍にいたアインシュタインが、大笑いしてね。『おもしろい子だね』と頭をなでてくれたのよ。髪の毛が雀の巣みたいな人だったわ」。

 たったこれだけのことだが、母が自分の右腕をさわりながら、「この腕のすぐ傍に立っていた」と話すからには、真実だろう。廊下側の端の列に座っていたことがわかる。

 「20世紀の100人」に入る著名な物理学者に声をかけてもらったとはいえ、小学校2年生には、彼がえらい事などわからないから淡々としたものだ。結婚後にその話を聞いた父の方が、むしろ驚いたと聞いている。父は化学者の端くれゆえに、物理学者アインシュタインの偉大さを知っていたからだ。

 鞆絵小の先生は、さぞかし緊張して授業に臨んだに違いない。そんなときに母がバカな質問をしたおかげで、教室は笑いに包まれ、その後の授業は、なごやかに進んだものと思われる。

 この時の「なぜなぜ少女」は、いまだに健在だ。「なぜなぜ婆さん」は、ときどき変な質問をして私たちを困らせる。野球中継を見ながら、「選手は、いつ夕ご飯を食べるのかしら」など聞く。たわいない質問という点では、小学校2年時から進歩がない。

 アインシュタイン来校の裏付けをとりたい。鞆絵小に「創立○○周年」の記念誌があるかもしれないと、104で学校の番号を聞いた。「そういう小学校はありません」。仕方なく、教育委員会に問い合わせたところ、「平成3年に廃校になり、御成門小になりました」。こうなったら、御成門小に電話をかけるしかない。電話口に出た先生は、「この学校は、南桜、西桜、櫻川、桜田、桜、神明、鞆絵がひとつになったのです。今、鞆絵小出身の先生がいませんが、わかり次第お知らせします」と話してくれた。電話がかかってこないところをみると、なんの記録もないのだろう。

 都心の人口減で、小中学校の統廃合が行われていることは聞いていたが、7校もの合併とは驚きだ。連休のさなかに、夫と周辺を歩いてみた。夫の職場は虎ノ門にあるので、案内役に不足はない。学校名が削り取られ、「港区立エコプラザ」に代わっていたが、なんと校舎は残っていた。

 朽ちた百葉箱の隣に、二宮尊徳の像が寂しく立っていた。母に写真を見せたら、「あらなつかしい!」と嬉しそうな声をあげた。校舎はコンクリート製だから当時のものではないだろうが、この像が戦後に造られるはずはないから、母が見上げていたものだ。背後に見えるのは校舎ではなく、真新しい森ビル。回転ドアの事故で有名になった森ビルのひとつ。


 アインシュタイン来日は、1922年(大正11年)11月17日。マルセイユを出帆したのは、10月8日。1ヶ月以上かかっての来日だ。右写真は、神戸港に到着時のアインシュタインとエルザ夫人。このとき、アインシュタインは43歳。

 朝日新聞の「重要紙面の75年」という縮刷版(昭和29年発行)をコピーした。父は意外にも、こういう類の本が好きだった。実家を処分した時に捨てられる運命だったものだが、役に立ってよかった。

 彼は、日本に向かう船中で、ノーベル物理学受賞の知らせを受けた。一般相対性理論を発表したのは1916年。その理論は1919年の日食観測で実証されていたが、ドイツとイギリスの対立など政治問題がからみ、受賞が見送られていた。「相対性理論」での受賞では問題がありすぎるので、「光電効果の法則」で受賞させることにしたのだと言う。科学が政治に利用されていた事実は、興味深い。

 相対性理論も光電効果も、なんのことやらさっぱりわからないが、「タイム」が選んだ「20世紀の顔」の1位はアインシュタインである。「相対性理論で人々の宇宙観を変えることに貢献したのみならず、テレビ、核兵器、宇宙旅行、半導体という、この100年の最も重要な技術開発に実際の影響を与えた」。

 また、ロイター通信が「過去1000年を代表する人は誰か」を世界の著名人に聞いたところ、1位はアインシュタインだった。いずれも20世紀の終わり頃の朝日新聞に出ていた。アインシュタインが100年間のみならず、1000年間を代表するほどの学者だったとは、この記事を読むまで、私は知らなかった。

 左の新聞記事は、東京日日新聞のコピー。大正十一年十一月十八日の日付が見える。東京日日新聞は、毎日新聞の前身。

 先の改造社の広告もそうだが、兄が当時の新聞をコピーして、たくさん送ってくれた。全部を掲載することは出来ないが、熱狂的な歓迎の様子を書いた記事ばかりだ。兄も、化学者の端くれだから、興味があったのかもしれない。

  神戸上陸後の日程は、11月18日・東京、12月2日・仙台、松島、4日・日光、6日・東京、8日・名古屋、10日・京都、11日・大阪、13日・神戸、23日・門司、24日・福岡。離日したのは12月29日。(矢野健太郎著『アインシュタイン伝』を参考にした)

 この間、彼は学者や学生ばかりでなく、一般人向けの講演も精力的にこなした。どの会場も聴衆であふれ、しかも非常に熱心に聞き入った・・と記事にある。

 日程を見ると、鞆絵小への来校は、11月18日から12月1日までの東京滞在中のことだろう。残念ながら鞆絵小訪問については、『アインシュタイン伝』には、出ていなかった。

 強行日程の中で、日光の金谷ホテルでの休養は、本当に嬉しかったにちがいない。ホテル便せんに書かれた「日本における私の印象」を、ほんの少しだけ引用する。(『アインシュタイン伝』より)

「・・・私が日本から招待されたということをきいて人々は非常に羨ましがった。ベルリンに住んでいてあれほど羨ましがられたことははじめてであった。私どもにとっては、日本という国は、薄いベールに包まれた不思議な国と思われている。その夢の国に私はよばれたのだ。・・」

 アインシュタインはヒトラーが政権を握った直後の1933年に、アメリカのプリンストン高級研究所の教授に赴任し、2度とドイツの地を踏むことはなかった。1955年にプリンストンで、76歳の生涯を閉じた。(20004年5月7日 記)

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