南部アフリカの旅 3 2015年3月26日(木)-5日目 南部アフリカに入ってからの旅程は割とゆったりしていたが、今日は朝食が4時半、出発が5時半ときつい。 ケープタウン発(7時30分)→南アフリカ航空でヨハネスブルグ着(9時30分) 初日にヨハネスブルグの空港に出迎えてくれたビッキーさんが、待っていてくれた。60歳くらいの美人の白人女性。夫が初日に「38年前にヨハネスブルグに来たことがあります」と話したことを覚えていた。日本人の顔なは同じように見えるような気がするがうが、覚えていて「久しぶりの南アフリカはどうですか。すっかり変わったでしょう」と話しかけてくれた。このように感じの良いガイドはめったにいない。今日一日は彼女と一緒だ。
さほど汚い町並みには見えない。歩いている人も小ざっぱりしている。こんな人たちが私たちを襲ったりするのだろうかと不思議に思う。 マンデラさんが1946年から13年間住んでいた家「マンデラ・ハウス」が公開されている(左)。 看護師だった最初の奥さんと子どもたちと暮らしていた。ツアーには内部見学は含まれていないので外観を見ただけだが、それなりに立派な家。マンデラさんは大学を出た弁護士なので黒人の中では上層階級。それだけに、27年間もの収容生活を耐え抜いたことに感動する。 ビッキーさんと一緒の散策は続く。1976年6月16日、ソウェト地区でアパルトヘイトに反対する暴動が起こった。警官に発砲されて犠牲者になったのがヘクター・ピーターソンという13歳の少年。「なぜ自分たちの言葉でなくアフリカン語(オランダ語を元にした言葉)での勉強をしなければならないのか」と反発した。13歳の少年の行いは各地に飛び火して3000人の死傷者が出たという。ピーターソンの遺体が運ばれた場所に、記念碑(左)が建っている。 街歩きで印象に残ったのは、スーパーマーケット。切符売り場みたいな小さな窓から希望の品を係員に告げ、欲しい品物を渡してもらうシステムだ。アパルトヘイトの頃の名残だと思うが、少なくともこのスーパーは、自由に商品を見て歩くことができない。 ヨハネスブルグから北西35qにあるスタークフォンテン洞窟に向かった。そばのレストランでアフリカン料理の昼食。クロコダイルを初めて食べたが、柔らかくて美味しかった。当たり前だがこのレストランには黒人グループもいた。夫は「38年前のヨハネスブルグでは、レストランで黒人と同席したことはなかった」と感慨深げだった。 スタークフォンテン洞窟は、金の採掘者によって1896年に発見された。この洞窟が有名になったのは1947年、スコットランド生まれのロバート・ブルーム博士が類人猿のアウストラロピテクス・アフリカヌスの頭蓋骨を発見したからだ。ちなみに、アウストラロは南の、ピテクスは猿という意味。その頭蓋骨は約200万年前の女性で、「ミセス・プレス」と名付けられた。600点の骨、8人分の人骨が見つかったそうだ。
プレトリアはおまけの観光みたいなものだから無理もないが、下車したのはユニオン・ビルが建つ広場だけ。ユニオン・ビルは南アフリカの政治の中心で官公庁が入っている。ユニオンの名は、アフリカーナ(オランダ系)とイギリス系の協調を表している。同じ白人でもアフリカーナとイギリス系は仲が悪い。 1994年、初の黒人大統領に選ばれたネルソン・マンデラが就任式をした所でもある。そのビルの下の広場に、とてつもなく大きなマンデラさんの銅像が建っている。2013年12月に除幕式が行われたばかりだ。マンデラさんが95歳で亡くなった直後だった。 夕食はプレトリアの日本食レストランで。日本人夫妻がワールドカップの時から開いている。日本食ブームもあり繁盛しているようだ。 夫が滞在していたヨハネスブルグは、今のように「恐怖の町」ではなかったという。でも後で聞けばソウェト地区で大規模な暴動が起こった翌年。そういうニュースは日本には入らず、白人たちに守られていたので、怖い思いをしなくてすんだに過ぎない。 夫は現地の会社に技術指導をするための出張だった。若いとはいえ指導者なので、現地会社の白人たちは皆よくしてくれた。休みの日にはプールのある豪邸に招いてくれたり、別荘に連れて行ってくれたり、ライオンサファリや金山にも連れて行ってくれた。私は出張先の様子を聞くのが好きだったが、なかでもヨハネスブルグは印象に残っている。出先でトイレに入ろうとした時のことだ。トイレは「White」と「Non White」に分かれていた。「Non White」に入ろうとしたら、一緒にいた白人が「whiteのほうに」と言ったという。「European」と「Non European」に分かれている場合もあった。
日本人は1961年に名誉白人と決められたことを知った。名誉白人ほどイヤな言葉はないと今でも思っている。5歳の息子すら憤慨して「お父さん、どっちのトイレにも入らないで、真ん中で立ちションすれがよかったのに」と言ったのを覚えている。私も「そうだ!そうだ!」と同調した。名誉白人は「白人待遇を与えるから、白人専用の施設を使っていい」ということ。当時の日本は金やプラチナを輸入、自動車部品や電化製品を輸出していた経済大国。経済力に物言わせた地位に過ぎない。 もっとも、名誉白人制度はケープタウンなどヨハネスブルグから離れた地域では浸透してなくて、同じ会社の販売担当の人は黄色人種ということでホテルを断られたという。やっとアメリカ系のホリディインに泊まることができた。「われわれよりもっと哀れなのは、アメリカでは高い位置にいる黒人だよ。黒人ということで、ホテルを断られたんだから」と夫が言っていた。アパルトヘイトの終焉1991年までは、こういう理不尽なことがまかり通っていた。 私は南アフリカを訪れるまで、アパルトヘイトが始まった時期を知らなかった。オランダ人やイギリス人の支配が始まった頃だろうと勝手に思い込んでいた。ところが制度として始まったのは1948年である。当時の日本はアメリカの占領下にあったとはいえ、自由な民主主義の時代が来たという解放感が満ちていたように思う。貧しかったが、希望に満ちていた。そんな時期にアフリカ大陸の南端ではこのように、あまりにも前時代的な政策がとられたのだ。 今の南アフリカの人口は5000万人弱。黒人が80%、カラードが9%、白人が7%、インド人が2%、その他2%である。アパルトヘイトが始まった頃の白人の比率は10%以上だったが、500万の白人が、大多数の黒人やカラードの権利をはく奪していた。 ビッキーさんに別れ際に「あなたはアパルトヘイトがなくなったことをどう思っていますか」と聞いた。「人種差別が無くなって良かった」という笑顔が返ってきた。彼女のような人ばかりでないのは勿論である。白人には住みにくい国になったようだ。もっとも黒人にとっても天国ではない。アパルトヘイトの頃は「白人政権が悪い!」と言っていればよかった。今は黒人が政権を取っているので、そうは言えない。黒人の間の格差は広まっているようだ。 (ヨハネスブルグのPRINCESS OF WALES TERRACE PARK 泊> (2016年8月16日 記) |