ブータンの旅6(最終回)
タクツアン僧院

 パロの郊外にあるタクツアン僧院(ブータンの旅1の地図参照)は、ブータン観光のハイライトだ。8世紀に仏教を広めたグル・リンポチェが、虎の背中に乗って飛んできたという伝説の地。ここで瞑想して、パロの人たちに仏教を広めたという。ブータン仏教の聖地である。

 タクツアン僧院 タクツアン僧院に行くのは楽ではない。2500mの地点から登りはじめ、2800mにある第一展望台まで約1時間。2850mの第二展望台まで約30分、そこから640段の階段を下る。下ったと思ったら今度は240段の上り。

 やっと僧院に到着。登り始めてから2時間半かかった。ツアー仲間には足が達者な人もいたが、ほとんどは私と同じかもっと低いレベなので、迷惑をかけないですんだ。

 第一展望台や第二展望台から見た僧院(左)は、崖にへびりつくように建っている。地形と相まって、ありがたみを感じるが、近づいてみると、厳かな感じはしなかった。前の建物が1998年に焼け、再建したからかもしれない。グル・リンポチェが瞑想したという洞窟に、少して聖地らしさを感じた。

西岡京治さん

 メモリアルチョンテル パロの西岡メモリアルチョンテル−記念仏塔−(左)を見学するまで、西岡京治さんの名前すら聞いたことがなかった。でもブータンでは、知らぬ人がいないほど有名で尊敬されているらしい。

西岡さんは、海外技術協力事業団からの派遣で、1964年にブータンの土地を踏んだ。長年の農業指導が認められて、1980年に4代目国王から「ダショー」という称号を贈られた。最高位の称号・ダショーが外国人に与えられたのは、西岡さんが初めてだという

だが1992年に歯の病で急死。葬式は、農業大臣が委員長をつとめる国葬だった。来日した5代目国王主催の晩さん会には、西岡さんの妻・里子夫人も出席していた。

ブータンに着いてすぐ、幾重にも重なる棚田や畑を見て、国の豊かさを感じた。八百屋にも果物と野菜が山と積まれていた。今ではインドに輸出している。

 でもこれだけ、生産性の高い農業ができるようになったのは、ひとえに西岡さんの指導によるものだった。彼がブータンに赴任したころは、田畑の面積の割には収穫量が極端に少なく、農民の労働もきつかった。山が険しく標高が高いので、農作物が育ちにくいからだ。従来のやり方に固執する農民を説得し、高地に適したやりかたを指導していった。 

市場 棚田 棚田
 
市場では新鮮な果物や野菜を
売っている

 
高低差のある大地に
棚田が広がっている

 
刈り入れが終わった後の
棚田は少し寂しい

西岡メモリアルチョンテルは、丘の上にある。見学後バスで下っている時に、「あそこに見えるのが西岡さんの家。奥さんと高校生の息子が住んでいる」と、ガイドのアシスさんが大きな家を指さした。「え!そんなはずないじゃない、西岡さんは19年ぐらい前に死んでいるのに、高校生の息子がいるなんて」と私。「もしかしたら大学生になっているかな。奥さんはブータン人だよ」とアシスさん。「日本人の奥さんとの間に子供がふたりいるけど、帰国してしまったからね」と、あっさり付け加えた。

書き残したこと 

 弓 書き残したことをいくつか取り上げて、ブータン旅行記を終わりにしようと思う。

 ブータンの国技は弓である。なぜ女性がいないのか聞きそびれたが、男性だけでやっている。10人ぐらいが1組になり、2組に分かれて試合をする。

 130m離れた的を射て、的の中心にあたれば、そのチーム全員が輪になって歓声をあげて踊る(左)。勝敗がつくまで一日中、弓に興じることもある。いちいち踊らないで、さっさとケリをつけたらいいと思うのは、私がセカセカ暮らしている日本人だからだ。

弓を楽しむには道具も場所も必要なので、もう少し手軽なダーツをしている人も多い。ガイドとドライバーは、観光中に大きな木をめがけて、よく石投げをしていた。僧侶は武器にもなる弓をしていはいけないので、石投げをするそうだ。


 交通整理 交通量はかなりあるのに、1ヶ所も交通信号が設置されていなかった。首都ティンプーのいちばんの繁華街では、おまわりさんが交通整理をしていた。今まで訪れた国で、信号がなかったのは初めてだ。

 そもそもインフラがまだ整っていない。道路は東西の縦貫道路と支線だけで、縦貫道路のほとんどがガタガタ道だ。「国王もこの道を通るの」と聞いたら「他に道がないからね。でも良い自動車だからこれほどは揺れない」という答えだった。

 道路もよくないが、ホテルの水回りも悪い。停電になったこともある。水力発電を輸出しているのに停電なんて・・と思わないでもないが、こういう例は他国にもある。首都や空港の近くではトイレに困ることはないが、ジャカールまでの移動中は、何度か青空トイレだった。

 インフラの遅れを嘆くような人は、ブータン旅行には向いてないと思う。60年前の日本の道路は未舗装が多かったし、停電もあった。トイレも水栓ではなかった。でも誰も文句を言わずに暮らしていた。みんなが支えあって生きていた。当時の日本人は、今よりも幸せだったような気もする。ブータン人の総幸福量が低下しないことを、祈るような気持ちで見守っていきたい。  (2013年3月2日 記)

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