ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅8 
 クリミア半島

2012年10月15日(月)-12日目

今日訪れる地も、歴史の教科書には必ず出てくる。1853年から1856年のクリミア戦争の舞台である。クリミア戦争は、衰退し始めたオスマントルコとロシアとの戦い。開戦の翌年に、フランスとイギリスがトルコに加担し、ロシアが敗北した。この戦争で敗けたロシアは抜本的な内政改革を余儀なくされ、勝ったイギリスとフランスは国際的な発言力を増していった。

バラクラバの港ヤルタから1時間ほどで、クリミア戦争の激戦地の1つ・バラクラバ(左)に着いた。ぶどう畑が広がり港にはヨットが停泊していて、戦争の面影などまったくない。バラクラバはイギリス軍の駐屯地だったが、伝令ミスでイギリス軍が大敗した地でもある。

次は、38万人が住むクリミア最大の町セヴァストーポリに着いた。1804年にロシア黒海艦隊の基地になった町。「クリミア戦争では349日間も耐え抜いた」とガイドは自慢げに話すが、結局は負け戦。

パノラマ館の壁面には、1855年6月18日の4時間の攻防が360度にわたって描かれている。F.A.Roubeau(1856−1928)というが画家の作品だ。迫力があり、しかもリアルで見ごたえがあった。

この絵に描かれた日はどうにかロシアが勝利したが、3ヶ月後には負けてしまった。結果的にロシアの弱さを露呈したクリミア戦争のモニュメントを、これほど大規模に残す理由がよくわからない。

若い時にこの戦いに参戦したトルストイは、「セヴァストーポリ物語」を書いている。この本でも読めば、実態がよく分かるかもしれない。

黒海 パノラマ館 パノラマ館の絵
 
黒海に面しているセヴァストーポリ


 パノラマ館の入り口

 
戦闘場面の絵


クリミア戦争が生んだ副産物もたくさんある。イギリスのナインチンゲールは敵味方両方の負傷兵の看護にあたった。40%だった怪我人の死亡率が、なんと2%にまで減ったという。献身的な彼女の行為は、クリミアの天使と呼ばれ、のちに赤十字設立にいたる。

負傷兵でも着やすいようなラグラン袖はラグラン伯爵、カーディガンはカーディガン伯爵が考案したそうだ。武器商人として財をなしたシュリーマンは、その財力をもとにトロイの遺跡を発掘した。ノーベル賞のノーベルは、ロシア軍の機雷の設置を請け負って富を得た。

セヴァストーポリは、第2次世界大戦の時の戦場にもなった。町の90%がドイツ軍により破壊されてしまった。でも250日間も耐え抜いたことで、ソ連の英雄都市になった。今回の旅で英雄都市を3ヶ所(ミンスク・ブレスト・セヴァストーポリ)も訪れた。英雄都市と煽てられてはいるが、結局はモスクワの防衛都市として、都合よく使われたにすぎない。どこも壊滅的な被害を受けている。

ウクライナの国旗とロシアの国旗今のセヴァストーポリは、2度の大戦の舞台になったとは想像すらし難い。絶好の日和ということもあり、黒海はキラキラ輝き気持ち良いプロムナードが続いている。きな臭さがまったくないわけではない。

軍港にはロシアの海軍基地とウクライナ海軍の司令部もある。両国の協定で2045年までの駐留が認められている。米軍の基地が沖縄にあるようなものだ。
写真の右はロシアの国旗で、左はウクライナの国旗(上半分が青で下半分が黄色)。

昼食後はバフチサライ・ハーン宮殿に行った。バフチサライは、1783年にロシア帝国に併合されるまで、クリミア・ハーン国の首都だった町。クリミアと言えば、クリミア戦争の地、ロシアの保養地という認識しかなかった。ここに来るまでは、モンゴル系のタタール人の国があったこと、今もタタール人が住んでいることを全く知らなかった。

この宮殿は、16世紀前半に建てられたオスマン・トルコ風の作り。クリミアのハーン(王)たちは、300年もここで暮らした。トルコで見たような豪華な宮殿ではないが、イスラム建築が大好きな私には嬉しい見学だった。見学の途中でモスクからアザーンが聞こえた。まぎれもなくここの一角は、イスラムだ。

宮殿 宮殿内部 タタール人カップル
 
バフチサライ・ハーン宮殿
イスラム風のミナレットが立つ


 宮殿の内部
 
結婚式をあげたばかりの
タタール人カップル


1917年の革命の混乱に乗じてタタール国家を再興しようとしたがかなわず、1944年にはスターリンによって辺境の地に追いやられてしまった。ゴルバチョフの時に戻ることを許され、今は25万人が住んでいる。50年後に戻って来ても土地はあったのだろうか。ウクライナ人との争いはないのだろうか。ガイドに聞きそびれてしまった。

宮殿の庭に結婚式をあげたばかりのカップルがいた。笑顔で被写体になってくれたが、2人とも肌の色は白い。タタール人というからアジア人の顔かと勝手に想像していたが、どうも違うようだ。ベンチでは、イスラム風の帽子をかぶったお年寄りがおしゃべりしていた。この宮殿は、クリミアに住むタタール人の拠り所になっているらしい。

                                      <ヤルタのブリストル泊>

10月16日(火)・17日(水)-13日目・14日目

ホテルを朝早く出発し、空港のあるシンフェローポリに向かった。90kmも離れているので1時間半ほどかかるが、成田のことを思えばなんということはない。

10時50分(シンフェローポリ発)→13時55分(モスクワ着

モスクワの空港で約6時間も待ち時間がある。こんなに長時間をどう過ごそうかと悩んだが、添乗員のUさんが毎日書いてくれた旅の報告を読んでいたら、いつの間にか時間が過ぎた。ウクライナからの便で簡単な機内食が出たのでお腹はすいてない。でも水が飲みたくて買いに行ったら、モスクワの通貨しか使えない店が多く、ドルやユーロが使えてもバカ高い。小さなペットボトルの水が4ドルもする。モスクワの空港はきれいになったが、後味が悪かった。そもそも液体を機内に持ち込めないからこんなことになるのだけれど。

13日20時20分(モスクワ発)→14日11時5分(成田着)                    (2014年2月2日 記)


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