ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅


2012年10月4日(木)〜10月17日(水) 

ベラルーシの首都ミンスク 
ベラルーシのブレスト
ウクライナのリヴォフからキエフへ
キエフからオデッサへ
モルドバワイン
モルドバの村
ヤルタ
クリミア半島
ツアーでの食事


ベラルーシ・ウクライナ・モルドバの旅1
ベラルーシの首都ミンスク

2012年10月4日(木)―1日目

成田に集合して驚いた。15名が集まらないと催行しないツアーなのに9名しかいない。催行が決まってからキャンセルが出たらしいが、少人数なのはラッキーだ。もうひとつ驚いたのは、1年前のブータンの旅仲間だったS夫妻と又も一緒になったことだ。ほかは女性4人と男性1人が1人参加。僻地の旅は一人参加が多い。

12時15分(成田発)→アエロフロートで17時15分(モスクワ着) 5時間の時差があるので10時間のフライト。

19時50分(モスクワ発)→アエロフロートで20時5分(ミンスク着) 1時間の時差があるので1時間15分のフライト

行程地図ソ連が崩壊した頃のアエロフロートといえば、ガタガタの機体で有名だった。20年も過ぎているから大丈夫だろうとは思うものの少し心配だったが、新しいエアバスで快適だった。モスクワの空港も1年前に新しくなったそうで、ソ連時代にトランジットで寄った空港とは隔世の感がある。

今回もほぼ御用達状態のE社のツアーに参加した。21年前までソ連の共和国だったベラルーシ・ウクライナ・モルドバの3ヵ国を訪ねる。

左地図のように、まずベラルーシに入国。以前は白ロシアと呼んでいた国だ。次にウクライナ、モルドバ、またウクライナというルートだった。

     <ベラルーシのミンスク オルビーダ 泊>

 

10月5日(金)―2日目

ベラルーシは、わずか2日間の滞在だがビザが要る。こんな短期間の滞在はビザなしにして欲しいものだ。面積は日本の本州より少し狭いが、人口は946万人。人口密度が低いうえに、出生率が減っているので人口も減少している。

ソ連に属していた国の中には、親ロシアの国もあれば反ロシアの国もある。ベラルーシはロシア寄りらしい。国旗はソ連時代の共和国旗とほとんど同じだし、「国家の日」は1944年に首都のミンスクがナチスドイツから解放された日だ。

他のウクライナやモルドバが、1991年にソ連から独立宣言した日を「国家の日」にしていることを思えば、ロシアに親近感をいだいているのがよく分かる。言葉もベラルーシ語よりロシア語を話す人が多いと聞いた。16年も大統領職についているルカシェンコは、もちろん親ロシアだ。

首都ミンスクの人口は183万人。ミンスク見学の今日、朝から雨が降っているし肌寒い。通勤の服装は、ダウンのジャケットや革ジャンだ。数日前の日本の猛暑が信じられない。 

涙の島 聖霊大聖堂 勝利の広場
 
涙の島
ソ連のアフガン侵攻で
亡くなった兵士の慰霊碑がある


聖霊大聖堂
日曜でもないのに
大勢の人がミサに参加していた

 
 
1945年の終戦勝利を
記念した広場
高校生が衛兵交代をしていた

女性ガイドのイリーナさんの案内で、まず訪れたのはスヴィスラチ川にある「涙の島」。ソ連のアフガン侵攻(1979〜1989年)で亡くなった兵士の慰霊碑がある。ソ連に属していなければ、兵に駆り出されることはなかったのになあとチラと思う。涙の島に隣接しているトラエツカヤ旧市街はカラフルなビルが連なり、旧市街独特の風格がない。第2次世界大戦で破壊つくされた後に復元した街並みだと聞き、納得した。

次は聖霊大聖堂へ。日曜でもないのに大勢の人がミサに参加していた。座る椅子がなく立ったままの礼拝なので正教の教会だとわかる。ルーマニアに行ったときに「正教とカトリックの違いは、イコノスタシス(聖なる扉)があるかないか、礼拝のための椅子がないかあるかだ」と散々聞かされた。

高さ38mのモニュメントが立つ勝利広場は、1945年の終戦勝利を記念しての広場。アフガン戦争と同じく、第2次大戦もソ連の一員だから否応なしに戦ったのかもしれない。でもミンスクは、ポーランドのワルシャワとモスクワの線上にある都市。ソ連の英雄都市として称えられているほどだから、ナチスドイツに果敢に抵抗したのだろう。女子も交えた高校生達が衛兵交代をしているところだった。「ミリタリークラブに属する優秀な高校生.ですよ」とイリーナさんは説明した。

最後の晩餐 平和の鐘 レーニン像
 
聖シモンヘレナ教会
祭壇中央に
最後の晩餐の絵がある

平和の鐘 
長崎の浦上天主堂から
ミンスクに贈られた
 
レーニン像
長い梯子に乗って
掃除をしていた

次は独立広場にある聖シモンヘレナというカトリック教会へ。祭壇中央に「最後の晩餐」の絵があった。「祭壇に最後の晩餐の絵があるのは珍しい」とツアーのお仲間が言う。たしかにこれまで見たカトリックの祭壇には、最後の晩餐の絵はなかった。ここの目玉は、イエスが処刑された時に遺体を包んだ布のコピーだ。本物がどこにあるか聞きそびれたが、イスラエルのゴルゴダの丘の教会にはなかった。すくなくとも公開はしていなかった。怪しげなコピーのような気がしてならない。

教会の側に、「平和の鐘」があった。原爆被害都市・長崎の浦上天主堂から、原発被害都市・ミンスクに贈られた鐘だという。ウクライナのチェルノブイリ原発事故の時に、放射線の7割が隣国のベラルーシに飛び散った事実を、ここに来るまでは知らなかった。驚いたことに、ウクライナよりベラルーシの方が犠牲者も多かったそうだ。

「ウクライナに行くから○○を欠席する」と出したメールに対し「チェルノブイリに気をつけて」と返信をくれた友人がいた。チェルノブイリ事故は1986年4月。25年以上過ぎた今も人々の記憶から消えない。こんな風に、フクシマもいつまでも世界の人々の脳裏から消えないのだろう。

2011年12月からチェルノブイリ原発の見学ツアーが始まり、世界中から申込みが殺到しているそうだ。 ウクライナのキエフからの日帰りツアーである。原発から30q圏内は、25年以上経った今も、立ち入りが禁止されている。この地域をガイドが放射線量を確認しながら案内する。残念ながら、私たちのツアー行程には入っていなかった。

バスに戻る道すがら、大きなレーニン像が立っていた。ハシゴをかけて掃除をしているところだった。マルクスの理論をもとに社会主義革命を起こしたレーニンが、悪人だったとは思えない。スターリン像はほとんどが破壊されたが、レーニン像は残っている。

ミール城 結婚式 ネスヴィジ城
 
ミール城
2000年に世界遺産
今は博物館とホテル

 
ミール城での結婚式
ベラルーシの女性は
世界一美人だと言われる
 
ネスヴィジ城
ミール城と同じラジビル家の所有
ラジビル家は狩りが好きだった

郊外のミール城を訪れるころには、時折青空も見せるようになった。2000年に世界遺産に登録された豪華な城。16世紀にユーリー・イリイニチ公が建てたが、継ぐ人がなくラジビル家が引き継いだ。今は博物館やホテルとして使っていて、結婚式も行われていた。花嫁さんはとびきりの美人。ベラルーシには美人が多いと聞いていたが、なるほど。

ミール城が間近に見えるレストランで、サラダ・ボルシチ・ポークソテー・デザートの昼食。旅行前はまったく期待していなかったのだが、これ以後3か国で出たどの食事もとびきり美味しかった。

レトロな2人昼食後に、ミール城同様世界遺産のネスヴィジ城に行った。バスを降りてから城の入口まではかなりの距離があるが、大きな池に沿った道には秋の気配が漂っていた。ここで撮ったレトロなコートを着た女性2人連れスナップとリンゴ売りオバチャンのスナップは、お気に入り写真となった。

リンゴ売りのオバチャンを見て、岸恵子さんの随筆「ベラルーシの林檎」をふと思い出した。細かい内容を思い出せないので、帰国後に読み返してみた。あとがきに次のようにある。「動く国境や権力のはざまで、ころころ転がされる、ちっちゃくて、しわくちゃで、無器量なリンゴ。それをいつくしんだ陽気なベラルーシのおばあさん」。

この本から20年近く経つが、無器量なリンゴに変わりはない。国境や権力のはざまにいて転がされている人々の立場も変わらないような気がする。

ネスヴィジ城に話を戻す。ミール城と同じラジビル家の城。現在のベラルーシの半分は彼らの領地だったほどの財力と権力を持ち「王冠のない王」と呼ばれた。山形の庄内藩は地主の本間家に財力があり、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と言われた。その本間家よりも、はるかに大規模なのがラジビル家なのだろう。

ラジビル家は狩りが好きだったので、部屋には狩りの道具や鹿の角や毛皮が飾ってあった。紋章も角笛だ。ラジビル家の人が眠る地下墓地にも行った。薄汚れた柩が78個置いてある。説明を聞かなければ普通の柩だが、中はミイラ。エジプトを旅行した時にミイラのつくり方を学び、自分たち一族もミイラで残そうと考えたらしい。この世になんの痕跡も残さずにあの世に行きたい私は、ミイラなぞになりたくない。

この城で、またもや結婚式のカップル2組に出会った。今日だけで何組目だろうか。この国の結婚年齢は日本に比べ若い。でもイリーナさんは「離婚率も高い」と話していた。

ネスヴィジ城を後にして、バスは西に走る。夜の8時ころに、ポーランとの国境・ブレスト市に到着した。

                           <ブレストのヴェスタ泊>   (2013年10月16日 記)

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