行きあたりばったり銅像めぐり
 13回

 横綱・谷風

 仙台シリーズの2回目は、横綱・谷風 梶之助。仙台に住んでいた頃は、「谷風」の名前をよく耳にした。ネオン輝く国分町には、今でも「谷風ビル」が建っている。

 いっとき、相撲大好き少女だった。中学や高校の友達は、よく言う。「治ちゃんは、千代の山が好きだったよネ。場所が始まると、みんなを巻き込んで相撲の話をしてた」。巻き込んだ覚えはないが、相撲好きの友人と、本物の番付表を見ながらのおしゃべりが、楽しかった。

 仙台シリーズ1回目のスケート同様、相撲好きも、父の影響が大きい。夏休みに仙台場所と称する巡業があるが、2回連れて行ってもらった。「どうせ本気ではないんだよ」と言われても、砂かぶりで見た力士のぶつかり合いに、迫力を感じてゾクゾクしたものだ。

 9月7日、姪の結婚式が始まるまでに2時間ほどある。夫と私は、ホテルの真ん前にある勾当台公園から、一番町を通り、片平まで歩くことにした。夫は6年間、私も20年間住んだ街ゆえに、変貌をこの目で見たかったのだ。

 勾当台公園は、県庁の前庭みたいなものだ。以前は、ワイルドに樹木が茂っていたが、整備されて味気ない。左写真は宮城県庁。

 散歩第一歩の勾当台公園に、「谷風像」が威風堂々立っていた。事前学習をしていなかったこともあり、思わぬ出会いに、嬉しくなった。この公園には、更に身近な人物像があったが、別項で記す。

 等身像である・・の説明があるが、189a、160`の大男である。江戸時代の男性の平均身長から考えると、どこにいても目立ったに違いない。彼は、名字帯刀を許された豪農の長男で、仙台藩お抱えの力士でもあった。当時は、間違いなく、郷土の偉人だ。

 谷風は4代目の横綱。5代目が小野川。ふたりとも寛政元年(1789年)の11月に推挙されている。同時昇進なのに、4代目と5代目の区別はどうやったのだろう。好敵手と言われるが、優勝回数では谷風が12回、小野川が7回と、谷風に軍配があがる。
 
 大相撲協会のHP「相撲の歴史」には、「江戸の勧進相撲は年に2場所制で、興業日数は、安永7年(1778年)から、1場所晴天10日間になった」とある。 「1年を10日で暮らすいい男」は、どこから出た言葉なのか。江戸時代は、1年を20日で暮らしている。いずれにしても今のように6場所もない。こんな時代に12回も優勝したのは、無類の強さという他はない。

 ちなみに、初代は「明石志賀之助」。2代は「丸山権太左衛門」。3代目は「綾川五郎次」。2代目も、宮城県登米の出身だ。

 私がよく知っている横綱は、40代「東冨士」、41代「千代の山」、42代「鏡里」、43代「吉葉山」、44代「栃錦」、45代「若乃花」、46代「朝潮」、47代「柏戸」48代「大鵬」だ。「なつかしい!」と、すべての力士の顔が浮かぶ方は、そこそこのお歳のはずだ。はっきり言えば、高齢者。

 朝青竜は、68代だから、もちろんその間の横綱も知っている。相撲に飽きてきたなので、あまり印象にないが、51代の「玉ノ海」だけは別だ。彼がまだ大関だった頃に、5月場所を見たことがある。取り組みが終わって部屋に引き上げる背中を、見よう見まねでペタペタたたいた。その後、盲腸手術で急死したので、尚更思い出に残っている。引き締まった固い背中だった。あんな頑丈そうな若者があっけなく亡くなった事に、当時は衝撃を受けた。

 私が本場所を見たのは蔵前国技館だったが、昭和60年に、今の両国新国技館に移った。相撲に興味がなくなったとは言え、好奇心固まりオバサンは、両国界隈の相撲部屋を見学したこともある。国技館の中にある相撲博物館にも足を運んだ。場所中は、部外者は見学できないが、他の日は無料で入場できる。相撲博物館のHPをご覧になってから、行かれたらどうだろうか。両国は、相撲部屋以外に、ちゃんこ鍋屋、力塚がある回向院などがあり、相撲好きには絶好の散歩道だ。
 
 もらってきたパンフレットには、谷風の資料が載っていた。弓取りの図と免許状。

 スキャナでとったので、見づらいかもしれないが、もともとが、こんな風に薄い色なのだ。

(2003年9月11日 記)



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