行きあたりばったり銅像めぐり
 14回

 支倉常長

 「フィギュアスケート発祥の像」見学後、Iちゃんと博物館内のレストランでランチ。午後は、やはり高校の同級生Yちゃんの家を訪ねることになっている。新築した家に来て欲しいということで、ご主人が車で迎えに来てくれることになった。車を待つまでの30分間をひとりで歩き回り、「支倉常長(はせくらつねなが)」に出会った(右写真)。

仙台では、伊達政宗と並ぶ有名人だ。支倉焼きという菓子もある(左写真)。純然たる和菓子ではなく、和洋折衷の味だ。いまでこそ珍しくないが、40年前には美味しかった。今でも買って帰ることが多い。

 支倉という町名もある。支倉常長の屋敷があったと考えるのが普通だが、そのような記録はない。知行地として与えられていたのは、下伊沢郡小山村など農村部である。

 伊達政宗は、宣教師ソテロと支倉常長を、ローマ教皇やイスパニア(スペイン)王に遣わした。宮城県の石巻に近い月の浦を、1613年10月に出帆した。いわゆる慶長の遣欧使節である。1582年出発の天正の少年たちと並んで、この時代に世界を旅した希有な人物だ。

 30年前の天正少年使節でさえ、帰国は秀吉による禁教令が出た後。彼らは歓迎されなかった。常長が出帆した1613年はどんな年だったか。禁教令が厳しくなり、1612年には、幕府の直轄領でのキリスト教は全面禁止。長崎では、26人のキリシタンが殉教死している。

 政宗の親書は、仙台でのキリスト教布教を許すので宣教師を派遣して欲しい、イスパニアの植民地であるメキシコとの通商を実現させるため、イスパニア王にとりなしてもらいたい・・というものだ。政宗が幕府に逆らってまで、この時期に使節を遣わした真意は、わかっていない。

 バチカンでパウロ5世に謁見したことになっているが、彼らは、日本が禁教令を発布していることを知っていたので、快く思うはずがない。少年使節と違って、扱いは冷たかったという説もある。

 左は、仙台市の博物館所蔵の「支倉常長像」。ちょんまげ姿の武士が、キリストに祈りを捧げている珍しい絵だ。喜劇役者、伴淳三郎に似ているような気がする。

 遠藤周作の「侍」という小説は、支倉常長が主人公だ。その中で描かれる常長は、政宗にお目見えしたこともない、貧しい地侍に過ぎない。洗礼などとは無縁の環境にいたのに、王に会うための便宜上、ソテロに洗礼させられた。

 仙台では政宗と並ぶ英雄だが、彼の渡欧が、仙台藩の利益にはなっていない。それどころか、ご禁制のキリシタンになったことで、迷惑な存在だったのだ。

 後の時代になれば、英雄扱いされるから面白いものだ。銅像も一等地にある。左は仙台城大手門の隅櫓。隅櫓と道路を隔てた広々した公園に立っている。

 肖像画より、銅像の顔の方が、はるかに品がある。どちらが彼に近いかなど、わかるはずもないが、銅像など、どうにでも作成出来るから、肖像画の方が真実に近いのではないか。

 遠藤周作の小説を読むと、そういう思いがする。恵まれない小さな谷戸で、百姓と共に暮らしていた寡黙な男。そんな彼が使節に選ばれ、8年もの間異国で暮らし、ようやく帰国した時には、完全な徳川の天下になっていた。帰国時には、ご禁制のキリシタン信者として、お仕置きを受けたのである。歴史に弄ばれた気の毒な人物だったのではあるまいか。支倉焼きの菓子を見たら、何というであろうか。

 隅櫓を下った所に、五色沼があり、その奥に博物館が建つ。いずれも元仙台城の区域だ。家も近かったし、学校もこの近辺だから、知っていてもよさそうなものだが、博物館の裏に、これほど多くの銅像やレリーフがあるとは知らなかった。関心がないという事は、恐ろしいことだ。

 右は、常長のレリーフである。ローマ法王に謁見している華やかな場面が彫られている。仙台のライオンズクラブの寄付だ。
(2003年9月23日 記)

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