行きあたりばったり銅像めぐり
 15回

 魯迅 その1

 魯迅(ろじん)は、「阿Q正伝」や「狂人日記」を書いた中国の作家。革命の指導者としても、非常に尊敬されている。日本で、どれほど馴染みがあるか知らないが、中学国語の教科書には、「故郷」が載っている。

 魯迅と仙台の関わりは深い。右は、仙台の博物館裏にある銅像。9月6日、仙台駅に出迎えてくれたIちゃんと一緒に、たくさんの銅像を見て回った。私たち以外に誰もいないので、「あ!市長の像まである。こんなのイヤだ」など、勝手なことを言いながら。

 1998年11月にも訪れたことがある。右像は覚えていないが、左の魯迅の碑は、ビニールシートで覆われていた。

 江沢民来仙に備えて、化粧直しをしている最中だった。ありのままを見せればよいとも思うが、私とて遠来の客が来れば、大掃除をする。当然のことかもしれない。江沢民たっての希望で、魯迅の碑を見学したと聞いている。

 魯迅が仙台にいたのは、23歳から25歳まで。もっと若々しい像を造って欲しいものだ。碑のレリーフは、「枯れた顔」と言えば聞こえはいいが、まるでご臨終前のようではないか。

 説明は、日本語、中国語、英語。日本語には、点字もついている。Iちゃんは、「ここに点字があることが、盲人が分かるはずがないじゃない。中途半端だ」と、憤慨している。そうだ。そうだ。その通り。でもないよりマシかもしれない。

 左は、「江沢民閣下ご来仙記念植樹」の碑。そばに梅の木があった。2月には、紅い花が咲くのだろう。

 江沢民が訪れたのは、魯迅が単に仙台で学んだからだけではない。魯迅(1881年〜1936年)が、仙台の医学専門学校(東北大医学部の前身)に入学したのは1904年。そこで出会った解剖学の藤野先生(1874年〜1945年)に、感謝しているからである。

 著作「藤野先生」の中で書いている。「わたしがわたしの師であると思い決めている人の中で、彼はもっともわたしを感激させ、わたしを励ましてくれた一人なのである」

 藤野先生は、日本でよりも、中国で知られている。1986年に上海に行った時に、魯迅公園や旧居を見学した。現地ガイドが、「ミナサン!藤野先生知ってますよネ」と言ったが、ほとんどの人は、不思議そうに首をふった。
  
 北京に行った時にも、魯迅の話が出た。その様子は、私の「北京の旅」に出ているが、ガイドの崔陽さんは、東北大で日本文学を勉強した。「毎日、魯迅の碑を見ながら通いました。中国の偉人が見守ってくれて嬉しかった」と話してくれた。東北大の川内・青葉山キャンパスは、ここから近い。

 「わたしの講義ノートは、始めから終わりまですっかり朱筆で添削してあったばかりか、たくさんの抜けている部分が書き足してあり、文法の誤りまでいちいち訂正してあったのだ」

 藤野先生は、日本語が不自由な魯迅のために、講義のたびに添削してやった。それは、彼が医学をやめることになった日まで続いた。じーんと来る話ではないか。

 医学を捨てた理由を「藤野先生」に書いているが、階段教室で見た幻灯の映像がきっかけだ。フィルムには、列強に侵略される中国と中国民衆の情けない姿が映っていた。それを目にした魯迅は、病より精神を救うのが先だと決意したという。 

 右は、魯迅が学んだ階段教室。授業後に、よく映写会が開かれたらしい。当時の医学専門学校の校舎が、仙台の片平に残っている。写真を撮りそびれたので、片平キャンパスの建物を保存する会(片平キャンパス近代建築トラストファンド)のHPから拝借した。

 この階段教室は、最近まで講義に使われていて、ここで授業を受けた人ばかりか、教壇に立った人も知っている。
 
 長くなるので、片平の話は、「魯迅 その2」で取り上げる。


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