行きあたりばったり銅像めぐり
 22回

 太田道灌 1

室町時代の武将・太田道灌は、江戸城を築いたとして有名だ。人気もあるらしい。その証拠に、彼の像や墓はいくつもある。すべてを訪ねた後にまとめてアップしようと思ったが、それは「行きあたりばったり銅像めぐり」の趣旨にあわない。ひとまず2カ所の銅像をご紹介したい。

 太田道灌は、1432年に、伊勢原(今の神奈川県)に生まれた。扇谷上杉定正に殺されたのは、1486年。54歳の時だ。道灌は上杉の家臣なので、親分に殺されたことになる。この時代の話としては、珍しくもなんともない。

 高層ビルが建ち並ぶ新宿西口の中でも、ひときわ偉容を誇っているのが都庁だ。その都庁すぐ側の新宿中央公園内に、道灌像が立っていることは事前に調べがついている。ブラブラ歩いていたら、お目当ての像はすぐ見つかった。

 「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」は、道灌と共に必ず語られる歌。兼明親王の作で、「後拾遺和歌集」の中にある。

 道灌が武蔵野を闊歩中に雨にあった。簑でも借りようかと立ち寄った家の少女が、山吹を差し出した。(左写真)。扇の上に一枝乗っている。

「実の」と「簑」をかけて、簑がひとつもないほど貧乏なことを、奥ゆかしく山吹の小枝ひとつで表現した。

 山吹を差し出された意味を理解できなかった道灌は、これ以後、歌の道を精進したという。ウソ臭い逸話だが、太田道灌が有名なのは、この歌のおかげかもしれない。ちなみに、山吹の八重は実をつけないが、一重は実をつける。

 江戸築城については「太田道灌2」で書く予定だが、城内には、菟玖波山亭、香月亭、泊船亭など、城郭に不似合いな名前の建物があった。道灌が、文芸に通じていて、文人とつきあいがあったからである。少女に出会った頃はともかく、武将にはめずらしく詩歌に堪能だった。
 
 これまで取り上げた銅像の中で、この一対ほど物語性を感じるものはない。右写真だけを見ると、すぐ脇に高層ビルが建っていることなど、想像もつかないだろう。ましてやホームレスのねぐらがあることは、わからないかもしれない。

 左上の写真の奥の方に、赤、黒、白の洗濯物が乾してある。青いテントも見える。新宿地下街から強制撤去された彼らの落ち着き先がここだった。銅像シリーズの中で、すでにホームレス登場は3回目。小泉首相に見て貰いたい。

 この日・11月8日も、わざわざ出かけたのではなく、「損保ジャパン東郷青児美術館」で開催中の「ゴッホと花」を、Nさんと見に行ったついでだ。Nさんは素人の域を超えた絵を描く友達。一緒に鑑賞すると、楽しい感想が聞ける。

 ゴッホは、「ルーラン夫人」を中央に、2点の「ひまわり」を左右に配する案を、弟テオ宛の手紙で書いている。こうして並べると「三幅対」になり、色彩は輝きを増し、作品の意図を理解することができる。

 日本で初めてゴッホの夢が実現したと宣伝している。左は損保ジャパンにいつも展示されているもの。右はアムステルダムのゴッホ美術館蔵。

 ゴッホが夢見た展示は、離れて鑑賞すると、祭壇のごとく輝いていた。私とNさんは、3枚の絵葉書を買って部屋に飾ることにした。なんともお粗末な三幅対だが、それなりに心がなごむ。
(2003年11月25日 記)

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