行きあたりばったり銅像めぐり
 23回

 太田道灌 2

 都庁が新宿に移転した有楽町の跡地に、「東京国際フォーラム」が建った。太田道灌は、このモダンなビルの中にいる。訪れた時は雷を伴う雨日和で周囲は暗い。右写真は、顔の表情がわからないものになってしまった。

 像の作者は朝倉文夫。昭和33年の制作時には都庁内にあったが、平成8年にここに移された。戦前に作られた像は、供出されて大砲に化けている。戦前の像は、朝倉文夫の実兄が製作した。

 数ヶ月にすぎない銅像ウオッチャーだが、横浜の井伊直弼像と都庁の太田道灌像が供出された話を聞いた。日本全国ではもっとあるに違いない。銅像を供出しなければならないほど、戦局は逼迫していたのだ。

 道灌が見つめている方向は、旧江戸城、今の皇居。奇抜な建物の中にいて、目を白黒させているにちがいない。旧江戸城は直接見えるわけではない。彼が毎日目にしているのは、右の景色。

 この地に最初に館を築いたのは江戸氏で、鎌倉時代はじめの頃である。江戸氏衰退後1世紀を経て、道灌が1457年に再興した。具体的な城の姿はわかっていないが、訪れた文人達の記録によると、太田道灌 1で書いたように、雅な名がつく建物が多かったらしい。

 実際に城が建っていた場所は諸説あるが、徳川家康が築いた場所とほぼ同じだと言われている。彼は築城の天才で、川越城や岩槻城も手がけている。

 私の家の近くに、茅ヶ崎城址がある。ここを発掘した横浜市埋蔵文化財センターの坂本彰氏に、案内してもらったばかりだが、茅ヶ崎城も、太田道灌ないしは、側近が築城した可能性が高いと語っていた。郭の作り方などに類似性があるらしい。数年後に公園として開放するまでは、立ち入り禁止なので、樹木をかきわけながらの、探訪だった。

 道灌に会いに来たのは、例のごとくついで。11月11日に「知られざるバリの魅力」の講演会が、フォーラム内の一室で開かれた。業界向けだが、飛び入りも良いというので、旅行会社に勤めていた大学時代の親友Mさんに付いていった。キャリアウーマンぽい人ばかりいたので、専業主婦の身ががちょっと悲しかった。

 講演者の渡辺氏は、「トラベルダイジェスト」に勤めていた頃に、世界各国をまわって取材した。定年後のロングステイに相応しい地として選んだのが、バリ島の田舎。今は、1年の3ヶ月をここで過ごしている。

 彼がバリ島を選んだ理由は、@日本に近いA物価が安いB1年中軽装でいいC治安がいいの4つだという。いつの日かロングステイ出来る日がくるかもしれない。夢だけで終わったら、良い夢を見させてもらったと前向き考えたい。

 太田道灌像の真下、地下1階に、11月1日にオープンしたばかりの「相田みつを美術館」があった。相田みつをと聞いてピントこない方も、右写真を見れば「あー」と言うだろう。トイレ書家と悪口を言う人もいるが、売店は、レジに行列が出来るほど混んでいた。

 いつものパターンだと、寄り道を記述すれば終わりだが、今回はまだ重要な話が残っている。

 ななんと!太田道灌19代目の子孫が、東京の千住で造り酒屋をやっている。この情報を教えてくれたのは、ネットで知り合ったjyusinさん。生まれも育ちも千住という彼女は、千住物語というHPを開いている。千住の紹介はもちろん、バーチャルで「奥の細道」も歩いている。

左は、11月13日の朝日新聞「東京 川の手版」の記事。写っているのが、19代目の太田精一郎さん。右はjyusinさんが送ってくれた画像。ずばり「道灌」という名の清酒を売っている。

 精一郎さんの先祖は岩槻太田氏の流れをくみ、越前藩に仕えていた。江戸初期に草津に移り、代々関守を務めたという。父は草津の本社の経営者だが、息子が、ゆかりの江戸に舞い戻った。

 ネットの知り合い草津の竜さんに「太田酒造って知ってる?」と聞いてみた。「太田酒造って造り酒屋あるよ。銘柄は道灌。太田道灌の事やったとは全然知らんかった。話題になる酒でもないからな。今度飲んでみます。」の返信があった。

 私がフォーラムで道灌像に会ったのは11日。2日後の13日にこの記事が載った。14日は、道灌が築城に関係したと思われる茅ヶ崎城址を歩いた。まるで道灌にとりつかれているような数日を過ごした。
(2003年 11月27日 記)

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