行きあたりばったり銅像めぐり
 24回

 松尾芭蕉
 

 芭蕉の銅像は、全国いたるところにある。いまさら・・という気がしないでもないが、奥の細道結びの地で、予期せず芭蕉に出会ってしまった(右写真)。「奥の細道」旅立ちの地は、東京の千住だが、結びは岐阜の大垣である。

 写遊会(写真で気軽に遊ぶ会。カメラはコンパクト)で、急に紅葉を撮りにいくことになった。通常の撮影会は、ミニバスを手配しているが、間に合わないので旅行会社のツアーに便乗した。11月16日から17日。仲間は、男性7人、女性5人。

 行き先は、愛知の香嵐渓と滋賀の湖東三山。シーズン真っ盛りとあって、良い宿が取れなかったらしい。紅葉に関係ない岐阜の大垣駅前に泊まったが、何が幸いするかわからない。おかげで来年が「芭蕉生誕360年」なる宣伝を目にすることができた。

 ホテル到着は夕方5時だったが、もう薄暗い。仲間12人で街にくりだして「養老御膳」を夕食にした。私が2番目に若いぐらいだから、養老御膳は実にふさわしいのだが、顔を見てあつらえた料理ではない。大垣から30分ほど電車に乗ると、「養老の滝」があるからの命名だ。

 夜に外出したので、街の様子がある程度つかめた。朝を待って散策することにした。6時はまだ暗いが、朝食は7時と決まっているので、1時間で往復できるところまで行ってみることにした。もちろん1人。写真の会なので、芭蕉や城を見に行くなど余計なことには、誰も付き合ってくれない。

 ホテルでもらった地図を見ると、中心部は堀で囲まれていて、大垣がまぎれもない城下町だったことを髣髴とさせる。大垣城は、関が原の戦いで、西軍の根城になったという。その後、徳川時代の1635年に、10万石の戸田氏鉄が移封された。幕末まで戸田氏が治めた城が復元されていた。(左写真)。

 右写真は騎馬姿の戸田氏鉄。単独で「銅像めぐり」で取りあげるには、彼を知らなさ過ぎる。

 「大垣は何もない所ですよ。よく来ましたね」と、散歩中のお年寄りが声をかけてきた。「いやあ、そんなことないですよ。初めての街はなんでも楽しい。実はね、芭蕉が着いた船着場まで行ってみたいのですが、間に合うかしら」「もうすぐですよ」と言ってくれたが、団体行動なので、今回はあきらめることにした。早朝の城址には、タクシーもいなかった。

 芭蕉が「奥の細道」の旅に出発したのは千住。元禄2年(1689年)3月27日(現在の5月16日)、45歳か46歳の時だ。揖斐川から、大垣城の船着場に上陸したのは同じ年の8月21日。しばらく大垣に滞在し、伊勢へ向かうところで終わっている。
 
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。行く春や鳥啼魚の目は泪

路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

 上の文は「奥の細道」の旅立ちと、結びである。右上写真は駅前の観光案内書のシャッター。係りの女性が7時1分前にシャッターを上げ始めたので「ちょっと待って!」と撮らせてもらった。「7時から開けるんです。早くして」と、業務に忠実なお嬢さんに怒られた。

 怒られながらも撮ってよかった。間違い見っけの証拠写真になったからだ。旅立ちの地が「東京深川」となっているが、出発時には深川の芭蕉庵を引き払い、弟子の杉山杉風の別荘に移っている。旅立ちは、足立区の「千住」が妥当ではないだろうか。もっとひどいのは、深川は台東区でない。江東区だ。来年は360年のイベントが控えている市の観光シャッターにしてはお粗末。

 さすがに左の結びの地に間違いはないのだろう。出発をピンク色、結びをモスグリーンでまとめ、奥の細道の行程地図まで示してある。味のあるシャッターだけに、明らかな間違いは残念だ。

 最初の句と最後の句は、「行く春」と「行く秋」で、対になっている。魚の目に涙なんかあるもんかと聞いたことがあるが、私には俳句の良し悪しがわからないから、どうでもいい。

 蛤(はまぐり)のふたみにわかれ・・は、蛤の殻と身とをひきはがすごとく、別れがはじまることを表しているらしい。「ふたみ」は、双身と「伊勢の「二見ヶ浦」をかけている。

 朝8時にホテルを出て訪れた永源寺と湖東三山は、紅葉もさることながら、深山にある寺の良さを備えていた。観光客がいなかったらどんなにか良いだろう。他の人もそう思っているのでお互い様だ。
(2003年12月9日 記)


 これを読んだjyusinさんが、なぜ生誕360年かを、教えてくれた。「中途半端な生誕○○年だな」と思いはしたものの、少しでも利用したほうが、人寄せには都合いい。そんな類だと勝手に思い込んでいた。

 ところが、360には意味があった。jyusinさんは、前回の太田道灌で、「太田酒造」を教えてくれた人。「奥の細道」バーチャル旅をしている。伊賀には、実際に行ってきたばかりだ。

 芭蕉が生まれたのは、伊賀上野(三重県上野市)。そこでは、2004伊賀びと委員会事務局が、と銘打って、大々的な行事を計画している。事務局のHPには、「360」は、全方位や原点回帰を示す「360度」を表している・・の説明があった。来年は、伊賀が面白いかもしれない。私は30年以上前に行ったことがある。当時は、芭蕉よりも伊賀忍者の屋敷の方が面白かったが、「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず」(奥の細道序文)の心境がわかる年齢になった。
(2003年12月11日 記)

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