行きあたりばったり銅像めぐり
 28回

 コペルニクス

 地動説の先覚者コペルニクス(1473年〜1543年)に出会ったのは、ポーランド南部の都市・クラクフである。天体模型を持ち、非常にわかりやすい(右写真)。

 当時のキリスト教世界では、天動説−地球は神が人間のために造り、宇宙の中心に据えた−が常識だった。

 「宇宙の中心は太陽、、地球は動いている」の説は、天文音痴の私には、とんでもない偉業に思える。理科で習わなければ、地球が動くなんてウソ!だろうと今でも思ってしまう。

 コペルニクスは亡くなる直前の1543年に、研究成果を公にした。彼はクラクフのヤギオ大学で、神学を学んだ聖職者でもあった。かたわら、数学や天文も学んでいた。聖職の身にありながら、天動説を真っ向から否定できなかった気持ちも理解できる。最期に、科学者としての良心が、勝ったとも言える。メンデルも、修道士をやりながら、遺伝の実験をしていた。学者と聖職者の兼業が多かったのかもしれない。

 クラクフがポーランド王国の首都だった時代(1386年〜1572年)は、ポーランドの全盛期でもあった。

 左写真は、ポーランド王が居城にしていたヴァヴェル城。外観も内部も、優雅なたたずまいだ。

 右上は、「シンドラーのリスト」のシンドラーが住んでいた家。右下の屋根がカーブしている建物は、日本美術・技術センター。磯崎新氏の設計だという。

 このように、クラクフはみどころが多い街だが、銅像めぐりが、脇道にそれ過ぎてもいけない。「ツアーでもこんなに見える海外の旅」で、記すことにする。

 ポーランド全土は、第2次世界大戦で壊滅的な被害を受けたが、クラクフは戦災を免れている。ドイツ軍の司令部が置かれていたためだ。ワルシャワが東京なら、クラクフは京都に例えられるが、戦災を免れた点でも似ている。

 地動説に話を戻そう。コペルニクスに続き、ドイツのケプラー(1571〜1630)とイタリアのガリレイ(1564〜1642)が地動説を唱えた。しかし、ローマ教皇庁は、1616年に、地動説を禁ずる布告を出す。

 ガリレイが異端裁判で罰せられたのは、よく知られている。刑を受けながらも「それでも地球は動く」とつぶやいた逸話は有名だ。自由に外出することも許されないまま、生涯を終えたと言われる。

 ローマ教皇庁が禁止をしても、事実は事実。地動説は、科学ばかりでなく当時の思想や哲学にも大きな影響を与えた。「コペルニクス的転回」という言葉が今でも使われるほどである。「ガリレオ的転回」とは言われない。それだけ、先駆者コペルニクスが認められているのだろう。

 現ローマ法王パウロ2世が、ガリレイの裁判の誤りを認めて謝罪したのは、1992年。ガリレイの死去から350年、コペルニクスが地動説を発表してから、540年も後のことだ。

 このニュースを聞いた時は、「なにを今更!」とあきれるやら、おかしいやら。でも、恐れ多くもローマ法王が謝罪することは、画期的な事なのかもしれない。

 ところで、パウロ2世もポーランド人。コペルニクスと同じ、ヤギオ大学で学んだ。左上写真は、大学を背にしたコペルニクス像。ヤギオ大学は、ポーランドで最初に創立された大学。重厚な外観だ。同じ大学で学んだパウロ2世が、コペルニクスの説を正式に認めたのは、偶然なのか。同郷のよしみ、同窓のよしみでないことを祈りたい。(2004年2月1日 記)

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