行きあたりばったり銅像めぐり
 30回

 赤い靴はいてた女の子 2
      <きみちゃん像>

 前回の「赤い靴・・」には、きみちゃんの消息をすでに知っていた人、初耳の人双方から、たくさんの感想が寄せられた。赤い靴の童謡サイトを、紹介してくださった方もいる。クリックすると、切なくて哀しいメロディーが流れる。

 予告通り、麻布十番にある「きみちゃん像」(右写真)を取り上げる。麻布十番は、地下鉄「大江戸線」や「南北線」の開通で、脚光を浴びるようになった。暗闇坂、狸坂、鳥居坂など、江戸を感じさせる通りもあるが、大使館が多いことでも知られる。話題の六本木ヒルズからも徒歩7分くらいだ。

 きみちゃんが亡くなったメソジスト派の孤児院は、明治15年から大正12年まで、今の稲荷神社あたり(大江戸線駅付近)に建っていたという。

 お互いの日程の調整がつかず、3ヶ月ぶりでKちゃんに会ったのは、2月8日。どこで会ってもいい用事だったので、話題スポットでありながら、行ったことのない六本木ヒルズでお茶とランチ。地方からの観光バスも数台停まっていた。新しもの好きに支えられて、にぎわいは当分続きそうだ。

 その点、数年前の話題の街・麻布十番は、こころなしか寂しい。前に来た時は、銅像に興味がなく素通りしたが、いやに彫刻が多いことに気づく。きみちゃん像は、街の中心広場「パティオ十番」に立っていた。

 わかりやすくするために年表風に記す
明治35年 岩崎かよが、静岡の清水で、私生児のきみちゃんを出産。母子はすぐ函館に移り住む。鈴木志郎と再婚して、真狩村という開拓村に入植。現在は留寿都町。
明治38年 メソジスト派の宣教師が養女を捜していたので、過酷な開拓村より幸せだろうと、きみちゃんを手放す。
明治40年 開拓は失敗し、家族は札幌に出た。志郎は北鳴新聞社に入社。同じ頃に野口雨情も入社。その時に、雨情は、きみちゃんの話を聞いた。
明治44年 きみちゃんは、メソジスト派の孤児院で亡くなった。
大正10年 野口雨情が「赤い靴」を作詞
大正11年 本居長世が作曲
昭和48年 岡そのが、「赤い靴の女の子は私の姉です。その後の消息を調べて欲しい」と、北海道新聞に投書
昭和54年 北海道テレビの記者・菊地寛が、追跡調査の結果を出版

 
 きみちゃんがアメリカに行かず、亡くなっていたことは、実母の岩崎かよも再婚相手の鈴木志郎も、野口雨情も本居長世も知らなかったことになる。

 養父母の宣教師は、豊かなアメリカ人である。なぜ治らないほど悪化させてしまったのか。みすみす死ぬとわかっていながら、孤児院に残した非情さ、身勝手さをも感じる。せめて、実母に連絡するぐらいの愛情があってもよかったのではないか。今更詮索してもどうなるものではないが。

 ところで、赤い靴関連の銅像は全国に4つある。山下公園のものが一番古く、昭和54年建立。日本平山頂(生まれ故郷が麓に見える)の、かよときみちゃん像は昭和61年、麻布のきみちゃん像は昭和64年、北海道の留寿都町にある像は、かよときみちゃんの2体だが、一番新しく平成4年建立。

 すべての像を訪ねようとする酔狂な方は少ないと思う。麻布商店街で出している公式サイトのページで、4カ所の像を紹介している。それぞれの文字をクリックすると、像が出てくるから、写真で対面することは出来る。

 観光に利用できるなら、なんでもやってしまう観光行政はスゴイ。特に、静岡の清水は、岩崎母子を石もて追い出した地である。よくも今頃になって、銅像など造るものだ。と言いながらも、私は日本平に行ったら、喜々として写真を撮ってくるだろう。
 
 きみちゃん像が立つ商店街には、各国の大使館の協力のもとに、その国の彫刻家の作品がざっと数えて20ほど並んでいる。

 きみちゃんに関連してか、母子の情愛を示すものが多い。左は韓国の李雲植の作品。右は、パキスタンのアンジャム・アヤズの作品。彫刻の足下に、プレートがあり、説明がついているのも、嬉しいことだ。

 ちなみに、きみちゃん像は、佐々木至の作品。

 きみちゃん像から5分ほど足を延ばすと、善福寺だ。アメリカのハリスが、日米通商条約後に、公使館をおいた寺。もちろんハリスの碑があったが、別の機会にご紹介したい。

 天然記念物の大銀杏もあるし、越路吹雪や福沢諭吉の墓もある。みどころの多い寺である。

 福沢諭吉の墓は、ご覧のように、花であふれていた。慶応に合格したい人が手向けた花かと一瞬思ったが、大学運動部などの名札がついていた。

 帰ってから調べたら、諭吉が亡くなったのは、1901年2月3日。葬儀は善福寺で8日に行われたとあった。私がおとずれたのは、その8日。にぎやかさも頷ける。
(2004年2月12日 記)

感想を書いてくださると嬉しいな→
次(月の砂漠像)へ
ホームへ