行きあたりばったり銅像めぐり
 35回

 東郷平八郎

 銅像めぐりを始めたのは1年前の6月だが、もう35回になった。最近は無意識に銅像を探していて、自分でも可笑しくなる。旅先で撮った画像を提供してくださる方も、たくさんいらっしゃる。

 今年は日露戦争から100年。日露戦争と言えば陸軍の乃木希典、海軍の東郷平八郎が有名だが、今回は東郷平八郎(右写真)を取り上げる。

 近所のテニス仲間と4月22日に、三浦半島をドライブしてきた。最近はテニスをほとんどしないで、旅行や日帰りドライブをしている。全員が免許証を持っているが、運転はNさんと決まっている。まず訪れたのが、横須賀市にある三笠公園。京急の横須賀中央駅から歩いても15分ぐらいだ。

 横須賀は海軍の町だったが、今も米軍の横須賀基地がある。通称どぶ板通りには、英語の看板がならび、基地の町を思わせる。左写真のように、「海軍さんのカレー」を売る店もある。

 「戦艦三笠」を背に立つ東郷の銅像は、天気が良かったせいもあるが、海と木々に囲まれ、輝いていた。(右写真)。

 以前要塞が置かれた猿島も、目の前に見える。猿島はここから定期船が出ているので簡単に行くことができる。もちろん猿島にも渡った。主題からはずれるので、詳細は省くが、三笠見学と猿島探訪はセットのようなものだ。

 東郷平八郎は、1847年に鹿児島で生まれ、1934年に東京で亡くなった。幕末、明治、大正、昭和を過ごしてきたことになる。薩英戦争、戊辰戦争にも参戦しているから、戦争に明け暮れた一生と言える。

 なかでも彼を有名にしたのは、1905年5月27日から28日にかけての、日本海海戦における勝利だ。ロシアのバルチック艦隊を破った事実は、世界にも知られている。帝政ロシアの圧政に苦しめられていた国々は、バルチック艦隊が壊滅したことに大喜び。「東郷ビール」までつくられた。

 トルコに行った時に、「東郷ビールはまだ売ってるよ」とガイドが言っていた。息子と同じ大学に留学していたイギリス人ジェームスは、日露戦争の正確な年号や東郷の名を知っていて、私たちを驚かせた。イギリスにとっても、ロシアはやっかいな存在で、日露戦争の2年前に、南下政策を抑えるために、日英同盟を結んでいる。「必ず歴史で習いますよ。東洋の小さな国が、ヨーロッパの大国を破ったんですからね。」と語った。近代、現代まで行き着かない日本の歴史教育よりはるかに良い。

 日本海海戦の戦艦が「三笠」だ。前年の黄海海戦でも「三笠」が活躍している。両方とも指揮官は、東郷平八郎である。艦内の地下部分は、博物館。海戦の模型図や写真も多く、ゆっくり見れば、日露戦争の全容がわかる。

 左「皇国の興廃この一戦にあり」は、展示物の写真だが、「天気晴朗なれど波高し」同様、起草は、名参謀の秋山真之とも言われている。詳しいことは知らない。

 「天気は良いが波が高い。はるばる対馬沖まで遠征してきたロシア艦隊は、休養充分な日本軍より、射撃の正確さに劣るはず」という勝利の予言だった。予言通り、バルチック艦隊の3分の2が沈んだ。ロシア軍は5000名の死者、6000名の捕虜。それに対し、日本の戦死者は数えるほどだった。

 戦前の海軍記念日は、5月27日。もちろん日本海海戦勝利にちなんでいる。

 これを機会に、両国はアメリカの仲介で、ポーツマス条約を結ぶ。日本海海戦だけを見れば、日本の大勝利のように思えるが、日本はすでに多大な犠牲者を出していた。それは与謝野晶子の「君死にたまふうことなかれ」や、内村鑑三を中心とした戦争反対運動にも現れている。

 ポーツマス条約の内容が不満だと、日比谷公園で焼き討ち事件があったが、全体では大勝利とは言えない戦いだったから、講話を結ばなければ泥沼になっていたはずだ。しかし、日本海海戦の勝利は、海軍の中で、彼の発言力が増すことになった。軍縮に反対して、太平洋戦争に突き進んでしまったという見方も一方にはある。

 一方では「三笠」が記念館に生まれ変わるなど、彼を崇める動きもある。昭和35年に三笠保存会が財団法人になった。

 100周年の来年は、大々的な行事が予定されている。(右写真)。NHKでも、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を取り上げるらしい。(右写真)。

 亡くなったのは昭和9年。6年後の昭和15年5月27日に、東郷神社が完成した。なんと、彼は、神に祭り上げられてしまった。若者でにぎわう町・原宿の駅から3分ほどに、静かに鎮座している。
(2004年6月14日 記)

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