行きあたりばったり銅像めぐり
 40回

 野口英世

 40回目は、新しい1000円札の肖像に登場した野口英世。「行きあたりばったり」の主旨にはあわないが、今日12日、わざわざ行ってきた。

 上野公園内に立像があるのは前から知っていたが、上野にある理由を、今日初めて気づいた。立っているのが、科学博物館前の林の中なのだ。科学博物館前に設置するには、ふさわしい人物と言える。

 鬱蒼とした木に囲まれているので、暗くて撮りにくい。おまけに今日は雨模様。フラッシュをたくなど工夫をしてやっと写したのが、左写真である。

 試験管を振っている堂々たる立像で、153pだったという実際の彼よりも高いのではないか。高い台座の上に立っているので、大人でも顔はよく見えない。遠足の小学生が「上まで入らないよ〜」と言いながら、記念撮影をしていた。

 彼に関する施設が他にないものかと検索した結果、JRの「千駄ヶ谷」から徒歩10分の所に「野口英世記念会館」があることを知った。

 ついでに千駄ヶ谷まで足を延ばした。会議や展示場に使われる3階建ての会館で、1階の小部屋が英世の展示室になっている。入場無料。

 小さな展示室に4つもの像があった。胸像が3つ。全身像が1つ。ここで銅像に会えるとは思っていなかったので、少し驚いた。右3枚は胸像の一部。それぞれ少し顔が違う。

 4枚目が全身像だ。上野公園のものに比べるとだいぶ小さいが、若い頃の顔だし、目の前でしげしげ見る事ができるので、親しみやすい。

 銅像以外に、スペイン・デンマーク・スウェーデン・フランスから贈られた勲章やメダル、趣味で描いた油絵、遺品なども展示してある。彼が正式な学校を出ていないこともあり、日本での処遇は冷たいものだったが、外国での研究成果は素晴らしい。そんなことがわかる展示だった。

 もちろん質量では、生地・福島県の猪苗代にある「野口英世記念館」には、かなわないが、同じ財団法人が経営しているらしい。そちらのパンフレットも置いてあった。

 私が育った地が福島に近い仙台ということもあり、野口英世は、郷土の偉人ごとき存在だった。初めて生家を訪れたのは、小学校の修学旅行の時だったが、それ以前にも、伝記は読んでいた。修学旅行の前には「野口英世の歌」まで覚えさせられた。昭和17年の文部省唱歌だ。私と同世代の夫は、この歌を知らないという。

1、磐梯山の動かない 姿にも似たその心 苦しいことがおこっても つらぬきとげた強い人
2、やさしく母をいたはって 昔の師をばうやまって 医学の道をふみきはめ 世界でその名をあげた人
3、波じも遠いアフリカに 日本のほまれかがやかし 人の命をすくはうと じぶんは命を捨てた人


 1歳の時に囲炉裏に落ちて火傷をしたこと、先生や級友がお金を出してくれて手術したこと、恩師小林先生が上の学校まで入れてくれたこと・・。ふるさとでの数々の美談は頭に入っていたが、実際に生家を訪れた時に、いちばん驚いたのは、彼のお姉さんが存命していたことだ。

 清作(彼の本名)が生まれたのは、1876年(明治9年)。「早くきてくだされ」の母親の手紙が有名なあまり、ひとりっこのように思われるが、2歳上の姉・イヌがいたし、弟・清三もいた。もちろん父・左代助はいたのだが、母・シカばかりが目立っている。脚光を浴びるのも無理はない。シカの手紙は今でも胸を打つ。

 「お前の出世には、みんなたまげました。私も喜んでおります。・・・・・早く来て下され、早く来て下され、一生のたのみであります。西さ向いてはおがみ東さ向いては拝みしております。北さ向いては拝みおります。南さ向いて拝んでおります。一日には塩断ちをしておりまする。お寺の和尚さんに拝んでもらって塩断ちをしておりまする。なにを忘れてもこれ忘れません。早く来て下され。いつくるか教えて下され。この返事待っておりまする。寝てもねむられません。」

 しなびたようなお婆さんが、囲炉裏のそばに座って、火傷の話をしてくれたことを覚えている。姉のイヌさんは1874生まれなので、当時は78歳ぐらい。小学生には、とてつもない年寄りに見えたとしても仕方ない。「志を得ざれば再び此地を踏まず」と彫った柱(左写真)も、手で触りながら見せてくれた。

 担任の先生が「何か質問があったら、お姉さんに聞いてごらんなさい」とおっしゃった。「なぜなせ少女」は、当然聞きたいことがあった。

 「イヌという名前は、嫌じゃないですか?お母さんもシカでしょう。弟2人は、清作と清三なのに、どうして女だけ、動物の名前なのですか?」。聞くのは悪いような気がして思いとどまったのだが、「なぜなぜHARUKO」は、いまだに聞かなかったことを後悔している。野口英世の本名が、野口ネコだったと想像するだけで愉快だ。


 

 
 上は、修学旅行の時の、生家前での集合写真。イヌさんが写っていれば記念になったのに、写っていない。2クラスだけで、しかも1クラスが40名弱だったので、6年生全員が写っている。後に大人がたくさんいるのは、一緒に参加した父兄(当時は父母とは言わなかった)である。父母が旅行に付いてくるなど、今なら考えられないが、お父さん達は会社を休んだのだろうか。

 この生家には、わが子が小学生の時に、連れて行っている。「努力すれば、偉い人になれるのよ」と諭したが、「こんなに苦労して偉くなんかなりたくない」という答えが2人から返ってきた。偉人という言葉自体が古くさくなってきたということだ。

 去年、五色沼に行った帰りに、生家前の道路を通った。何やら大げさな囲いが出来ていてびっくりしたが、きょう「千駄ヶ谷」でもらってきたパンフレットには、生家の現状写真(左)が載っていた。

 修学旅行の時の写真と比べていただきたい。当時は、トタン屋根だが、今は立派な茅葺きに補修されている。この家を見ると、極貧の農家とは思えないが、この家を建てた江戸時代には、中農だったらしい。

 野口英世は、お金にだらしがなかったと言われる。小学生用の偉人伝には、美談しか載っていないが、大人用の本には、アメリカへの渡航費を支援者に泣きついて出してもらったのに、飲み食いに使ってしまったことなども書いてある。金銭感覚はめちゃくちゃだったらしい。その彼が、1000円札の肖像になるのだから面白い。(2004年11月12日 記)

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