行きあたりばったり銅像めぐり
 8回

 太宰とたけの像 1

 「太宰には多くの長編があるが、もしその中から一遍を選ぶとすれば 『津軽』をあげたい。・・」と、亀井勝一郎は、書いている。

 太宰治は、昭和19年に、ふるさと津軽を巡り、なつかしい人に再会した。その時の小説が、『津軽』である。太宰35歳の時。

 彼がいちばん訪ねたかった小泊(こどまり)は、母とも慕う子守のたけが嫁いだ村である。日本海に面した漁港だ。

 たけに会いに行くのは、旅の終わり。最後に楽しみを残しておいた。「越野たけ」の名前だけを頼りに、運動会を見ていた彼女と、劇的な再会を果たす。『津軽』のクライマックスである。
 
 
 小泊は当時も活気ある漁港だったが、今でもイカやモズクの産地。岸壁には、何隻もの舟が、つながれていた。写真は、イカの天日干し。炭で焼いたイカは、言うに言われぬほど美味しかった。宅配便で送ってもらい自宅で食べたが、さほどではない。何が違うのだろう。

 たけに対する太宰の切ないまでの思いは、 『思ひ出』や 『津軽』に書かれている。たけは、2歳から6歳までの太宰を育てた子守だ。母親代わりではあったが、11歳しか違わない。

 私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、「たばこも飲むなう。さっきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきやなう」。

 彼女は、読む本がなくなると、村の日曜学校から子供の本をどんどん借りてきては、本を読むことを教えたり、近所の寺で地獄絵を見せて道徳教育も行った。子守の域を超えて、愛情を降り注いだのだ。
 
 今回の「銅像めぐり」は、「太宰とたけの像」。正式には、「小説津軽の像」と言うらしい。前回と前々回の続きなので、もちろん同行者はKちゃん。7月19日。

 念願のたけに再会した太宰は、「私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい」。

 1989年に完成したこの像は、たけと太宰が再会した場所にあり、隣には記念館も建つ。たけ生前のビデオや、衣装など展示してある。ビデオで見た83歳のたけさんは、色つやが良くて、若々しかった。

 再会時は太宰35歳、たけ46歳だから、この像より若いはずだ。これではまるで年寄りに見える。ちなみに、たけさんが亡くなったのは、1983年。85歳まで長生きした。

 津島家(津島修治が太宰の本名)の小作の子で、子守奉公に出された”たけ”だが、『思ひ出』や 『津軽』のおかげで、まるで郷土の偉人である。もっとも、太宰を愛情込めて育て、小説家になった人に読書の習慣をつけたのだから、偉人には違いない。場所は、北津軽郡小泊村砂山。

 青森駅を朝6時12分に出発した。奥羽線で川部まで、川部から五能線で五所川原。さらに津軽鉄道に乗り換え、終点の津軽中里へ。中里で1時間以上待ち、小泊にバスが着いたのは10時40分頃。太宰の頃と、さして時間は変わらないのではないか。

 ローカル列車や路線バスを乗り継ぐと、効率の悪いことおびただしい。私とKちゃんは、こんな旅をしたい・・と思い続けていたので、待ち時間も気になるどころか、「どこから来た」とあれこれ聞いてくるお年寄り相手におしゃべり。津軽情緒を存分に楽しんだ。東北弁は得意科目のはずだが、ローカル線に乗っている年寄りの津軽弁には、まいったまいった。

 中里から小泊までのバスは、小泊でサッカーの試合があるという東奥義塾の高校生と、土地の人ばかり。「たけさんと太宰に会いに行く」と話すと、「暇だから、案内してやる」と、50歳がらみの男性が言う。オバサン2人だと、世話を焼きたくなるらしい。4〜5人もいると、こうはいかない。声をかけてくれるどころか、眉をひそめられる場合が多いのだ。

 この人に案内してもらったのは、大正解だった。記念館の銅像だけを目指していたのだが、バス停を2つ手前で下り、連れて行ってくれたのが、たけさんの娘さんの家。

 思いもかけず、たけさんの長女・久保田文枝さんと話すことが出来た。「たけ年譜」には、1925年4女文枝誕生となっている。たけさんは、後妻であり、次女三女が生後すぐ死亡したので、文枝さんは、たけさんの長女みたいなものだ。

 「HPに載せるかもしれない」と、断って撮った写真(左)であるが、HPがどんなものか、知らないかもしれない。お嫁さんが開いている海産物の店を手伝っていて、この時もイカの整理をしていた。宅配便でイカを送ってもらったのは、もちろん「久保田商店」である。

 たけさんは、太宰の子守をしていたこと、突然訪ねて来た日のことを、子供達に、繰り返し語っていたらしい。

 「ゲートルを巻いていたので、誰かすぐにはわからなかった。スパイかと思ったと、母は話していましたよ」。

 「私たち小泊の者は、太宰の作品なんか、好きでないけど、よーく若い人が訪ねてきます」など、話してくれた。声も話し方も若々しく、きれいな方だった。津軽弁をうまく表現出来ないので、標準語で書いてしまった。

 右写真は、ゲートルが目立つアングルから撮った1枚。たけさんは、もんぺ。昭和19年だから、戦時色である。

 教科書の文学史に載っている作家で、今なお強い人気を保っているのは、漱石と太宰だという。三鷹の禅林寺で行われる6月19日の桜桃忌には、全国から大勢のファンが集まる。

 『津軽』を読み返してみたが、平易な文体での人間描写がすばらしい。太宰は、上京後に何度も自殺を試み、たけに再会した4年後には、玉川上水に身を投じている。『津軽』には、こんな暗さは、まったくないのだ。
 たけが子守をしていた太宰の生家は、金木にある。長くなるので、次の項で。 
(2003年7月28日記)
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