行きあたりばったり銅像めぐり
 9回

 太宰とたけの像 2

 2歳の太宰と13歳の子守・たけとの最初の出会いは、北津軽郡金木村の太宰の生家。今は町になっている金木は、五所川原から津軽鉄道で20分強の地にある。

 1両だけの津軽鉄道は、ストーブ列車でも有名だが、私たちが乗ったのは7月19日。風鈴列車の名がついていた。太宰の生家が金木になければ、廃線になっても仕方がないような路線だ。名前も「走れメロス」。太宰さまさまである。

 太宰が生まれる2年前の明治40年に、大地主だった父・津島源右衛門が豪邸を建てた。

 階下は11室で278坪、2階は8室で160坪。太宰は『苦悩の年鑑』で、「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」と書いている。

 津島家が、終戦後に手放した後は、旅館として使われ、太宰ファンのメッカになっていた。「斜陽の間」に泊まることが、憧れだったと聞く。

 平成8年に町が買い取り、太宰の記念館である「斜陽館」に生まれ変わった。(写真左)。この時に、2億円以上をかけ修復したが、間取りに変更はない。

 米倉にいたるまでヒバ造りの日本家屋。近代ビルが皮相に見えてしまうほど重厚な造りだ。この家を見れば、おのずと、地主と小作の関係が想像される。

 農地解放がなかったら、こんな搾取がいまだに続いていたのだ。たけが子守に来たのも、小作のお礼奉公とのこと。太宰は、所詮、大地主のお坊っちゃま、甘えん坊である。

  津軽鉄道も太宰だが、金木は、もちろん太宰さまさま。太宰通り商店街なる幟まである。右奥に小さく見える青い看板は、「津島歯科医院」。その向かいには「津島医院」もあった。親戚かどうか聞きそびれた。

 この幟を見れば、すべてがお見通しではないだろうか。斜陽館前には、真新しい「津軽三味線会館」や、物産館・レストランが建ち、大型バスが詰めかけている。津軽三味線を聞きたい・・というKちゃんに付き合って生演奏を聞いた。金木は、津軽三味線の発祥の地とのこと。でも、観光バスが来るような場所での演奏は、心に染みない。

 このあたりの混雑を目にすると、「みんなこんなに、太宰が好きだったの?」と、思わないでもないが、私も似たような行動をしているので、他人様のことをとやかく言う資格はないのだ。

 太宰は『津軽』の中で、「金木もどうも悪くないじゃないか」と語っている。オバサン、オジサンの団体や、幟を目撃したならば、絶対にこのせりふは出ないだろうなあ。

 青森で知人に会う約束があるKちゃんとしばし別れて、2時間ほど付近を一人でぶらつく。斜陽館周辺をちょっと外れると、極端に人がいなくなる。

 
「たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。と、『思ひ出』に書いている。この寺が雲祥寺である。(写真右)。境内の説明板には、作家太宰が『思ひ出』に書いてから、多くの見学者が訪れるようになった・・とある。正直な寺だなあ。

 たけと太宰の関係では、もう1カ所、訪ねたい所があった。2人がよく遊びに行った「芦野公園」。津軽鉄道では、中里よりの次の駅だが、1時間に1本ぐらいしかないので、次の便では間に合わない。青田やアジサイが目に優しい田舎道を、トボトボ歩いた。

 芦野公園は、県立公園だけあり、想像していたよりはるかに広い。目的の太宰の文学碑を探すのに、ずいぶん手間取ってしまった。すぐそばに芦野湖があり、「夢の浮き橋」という吊り橋がかかる景勝地だ。

 「選ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」は、彼が好んで口にしていたヴェルレーヌの詩の一節。この文学碑の前で、6月19日に、桜桃忌から名前をかえた「生誕記念日」の集いをしている。

 玉川上水から遺体があがったのが、奇しくも太宰39歳の誕生日。桜桃忌と生誕記念日は同じなのだ。長女の津島園子さんは、たびたび訪れると聞いた。

 小泊の記念館には、園子さんの絵が飾ってあった。意地悪く考えれば、選挙運動かもしれない。夫は、衆議院議員の津島雄二。選挙区は青森一区。もちろん金木も含まれる。

 次女の里子さん(作家・津島佑子)や「斜陽」の子・太田治子さんは、こういう場に、姿を見せないそうだ。そうだろうな。わかるな。(2003年7月28日記)
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