行きあたりばったり銅像めぐり
 92回

  新島 襄

大河ドラマ「八重の桜」は後半に入り、舞台は京都に移った。八重と結婚する新島襄の銅像(左)には函館で出会ったが、写真はファイルに入ったままになっていた。大河ドラマに新島襄が登場したのを機に、取り上げることにした。

近所の友人と函館に行ったのは、2008年だからもう5年も前のことになる。もちろん新島襄に会いに行ったわけではないが、この函館の旅ではペリーや土方歳三など有名な銅像と対面することができた。

同志社大学の創立者・新島襄の銅像は京都にもありそうだが、意外にも今は、函館にしかないようだ。

彼は、1843年に上州安中藩士の子として江戸屋敷で生まれた。ペリー来航の10年前、激動期の幕末に生を受けた。幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶうちに、アメリカに憧れを持つようになる。しかし、当時は鎖国中。密航するしかなかった。

鎖国中とはいえ、日米和親条約で函館と下田は開港していた。アメリカ船で密航するには、函館か下田に行かねばならなかった。そういえば函館旅行と同じメンバーで遊びに行った下田は、吉田松陰が密航を企てた地だ。彼の密航が失敗したので、新島襄は江戸から遠い函館を選んだと言われる。

新島は函館のハリストス教会に約40日間滞在し、密航の機会を待っていた。そこでロシア正教の司祭ニコライに会う。新島はニコライに日本語や古事記を教え、ニコライは聖書を語った。

密航地の像や石碑は、市電の「末広町」から徒歩3分の海沿いにある。観光客に人気の「金森赤レンガ倉庫」にも近い。


新島襄が約40日間
世話になった
ハリストス教会 


銅像にしては珍しく
小舟に乗っている像

 
 
密航地という
大きな石碑が
建っている


1864年6月、アメリカの船で出国。船長から「ジョー」と呼ばれていたことから、帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。大河ドラマの中にも出てくるが、彼の本名は七五三太(しめた)。女の子が4人続いた後に生まれた男の子だったので、親が「しめた!」と喜んだからの命名だ。

各地に寄港しながら、1年後の1865年7月にボストンに到着。船主ハーディ家の援助で、フィリップス・アカデミーに入学した。その後、アマースト大学で学んだ。このとき「少年よ大志をいだけ」のクラーク博士に化学を習っている。その縁で、クラーク博士が来日したそうだ。神学校でも学び、宣教師の資格も得た。1875年アメリカ派遣の宣教師として帰国。10年間のアメリカ生活だった。

帰国後すぐに、同志社英学校を開校。京都府知事の槇村正直や京都府顧問の山本覚馬の後押しもあったが、「キリスト教主義の学校を設立したい」という襄の強い願いに、たくさんのアメリカ人が寄付をしてくれたことが大きい。今ある日本のキリスト教系の学校のほとんどは、明治期にアメリカ人の後押しで設立された。

1877年には同志社女学校を開校。1889年、同志社大学設立の準備で全国を周っている時に前橋で倒れ、1890年に大磯の旅館で亡くなった。46歳の若さだった。

山本覚馬の妹・八重と結婚したのは帰国後間もない1876年。「彼女は見た目は決して美しくありませんが、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分ですとアメリカの知人宛に送っている。お互いに「ジョー」「八重さん」と呼びあい、散歩も一緒にし、チャペルでも並んで座った。今なら当たり前のことだが、まだ封建制度の名残があったころ、こうしたふるまいは非難の的だったらしい。

ところで、彼らが暮らした家が、記念館になっている。ここを訪れたのは2007年。日本史ウオーキングで平安京のなごりを探しながら歩いている時に、偶然見つけた。住所は上京区寺町通丸太町上る松蔭町。御苑の東側の道路を隔てたところにある。

 
新島襄先生の
旧居という石碑が
建つ入口

 
両開きの窓がある
コロニアル風の洋館だが
中は和風
 
たくさんの本に
囲まれた書斎


同志社英学校の仮校舎として借家した高松保実邸の跡地に建てた。コロニアル風の窓があり、外観は洋風だが、部屋に入ると和風建築。でもオルガンや応接セットが置いてあるなど、アメリカ生活が長かったことを思わせる。昭和60(1985)年に京都市指定有形文化財に指定されている。

ちなみに、襄が亡くなった後、八重は襄の弟子たちとうまくいかず同志社からは遠ざかっていく。でもボランティアの看護婦として日清・日露戦争に従軍して、勲章を授与された。また裏千家の茶道師匠になり、これまで男性主流だった茶道を女性に広めるなど、多方面で活躍した。亡くなったのは昭和7(1932)年、86歳だった。ハンサムウーマンらしい一生を、この家で終えた。

最後に「大河ドラマ」に水を指すような話。会津出身で名前が○○八重さんという友人がいる。彼女は結婚後も会津で暮らしているから、会津のことならなんでも知っているような人だ。「あなたの名前は新島八重さんからとったの?」と聞いたら「とんでもない。新島八重は最近でこそ”会津のジャンヌダルク”と呼ばれているけれど、数年前まではほとんど無名の人よ」という答えが返ってきた。       (2013年9月9日 記)

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