行きあたりばったり銅像めぐり
   93回

   林芙美子

林芙美子2013年10月に広島県の尾道を歩いてきた。尾道駅の近く、車がひんぱんに通る道路沿いに、林芙美子の銅像があった。銅像があることを知らなかったので、ばったり出会えたのは幸運だった。

「放浪記」などで知られる作家・林芙美子は、1903(明治36)年12月に下関で生まれたと本人は言っている。ところが彼女の没後に、生誕地は北九州市の門司だという説が発表された。下関と門司は歩いて行けるほど近いし、親の職業が行商だったことを思えば、なんら不思議はない。

小学校も長崎・佐世保・下関と転々したが、小学校を卒業したのは尾道である。尾道の小学校の小林先生に文才を認められ、尾道の高等女学校に進学。貧しくて進学できない子どもに手を差し伸べた先生の話は、他でもよく聞く。目をかけた生徒が出世したら、先生冥利につきるだろうなと思う。

上京したのは1922年、19歳で女学校卒業後である。出生地さえはっきりしない生活をしていた芙美子にとって、尾道での小学校から女学校にかけての生活は、とても楽しかったのではないだろうか。銅像建立の地にふさわしいとは思うものの、どうせなら、女学校時代の像を作って欲しかった。



放浪記からの一節 芙美子の家 銅像
千光寺山から見た瀬戸内海
 
上段は銅像の傍にあった石碑
「見えた」「見える」の表現から
嬉しさが伝わってくる

下段は千光寺山から見た瀬戸内海

 
駅に近い商店街の「喫茶・芙美子」には、直筆原稿なども置いてある
店の奥に芙美子一家が住んでいた
旧宅が移築されている


 
物思いにふける芙美子像
この像を見ると、森光子の「放浪記」を
思い出してしまう。故郷に帰った喜びより
愁いを感じてしまう。




女学校を卒業後、尾道で知りあった恋人(東京の大学生)を頼って上京したが、結局、恋人は故郷に帰ってしまう。文学の道を目指すもそう簡単にはいかない。女工・事務員・女給・下足番などをしながらも、出版社に作品を売り込んでいた。

数々の恋の遍歴後、1926年、23歳のときに画学生の手塚緑敏と結婚。手塚との結婚生活は死ぬまで続いた。

自伝小説「放浪記」を雑誌に連載始めたのは1928年である。改造社が1930年に出版した単行本は非常に売れて、一躍流行作家になった。

芙美子がなぜ外国に憧れたのかよくわからないが、印税が入るとは、中国やパリやロンドンに遊びに行っている。日本全国を放浪していたから、一人旅でも物怖じしなかったのかもしれない。お嬢さん育ちではなかったので、怖い物知らずだったのかもしれない。

日中戦争が激しくなると新聞社の特派員として南京へ、内閣情報部のペン部隊として武漢へも行っている。満州や朝鮮にも足を延ばしている。太平洋戦争が始まると陸軍報道部員として、シンガポールやジャワに滞在したこともある。

戦争中の行動から見て、軍部への協力者と見られがちだが、「これから自由に執筆できる」と、戦争終結を喜んでいたそうだ。戦後に執筆した著作は膨大なものになる。

記念館入口新宿区中井にある林芙美子記念館(左)には、何度も行ったことがある。西武新宿線の「中井」から徒歩7分ほどの閑静な地にある記念館は、もとはといえば、芙美子が1941(昭和16)年に新築した家である。

1951(昭和26)年に亡くなるまで住んでいたが、夫の緑敏没後に、記念館として生まれ変わった。

だからこの家は、昭和16年のままである。京風の数寄屋造りと普通の民家のミックスは、建築としても見る価値が十分ある。芙美子が建築の勉強をしたり京都の民家を見学に行ったり、材木も吟味するなど、思いを込めて作った家ならではである。

建築当時は戦時中ゆえに、建坪の制限があった。このために芙美子名義の生活棟と、夫名義のアトリエ棟を別々に建て、その後すぐにつなぎ合わせたそうだ。

以前は家の中に入って見学できたが、今は内部に入ることはできない。でも縁側が広いので、庭からでも十分見ることができる。土日にはボランティアガイドが、建築のこだわりなども説明してくれる。「料理が好きだったので台所は特に吟味して作った」「イヤな編集者とお気に入りの編集者を通す部屋は別だった」「いちばん良い場所を母の部屋にした」など聞くと、芙美子の別な面が見えるようで楽しい。

年に数回は、人数を制限して内部見学の日も設定している。

居間 台所 庭
 
居間
奥の部屋が書斎で、
ここで執筆した

 
台所
客間よりも台所や居間の
作りにこだわった
料理が好きでよく台所に立った


庭から見た住まい
2つの棟に分かれている
今の季節ごとに
木々や草花を楽しめる
 


1951年の6月26日の夜、主婦の友の連載のために料亭を回ったのちに苦しみ、27日の早朝心臓麻痺で自宅で亡くなった。このとき小学生だった私は、母がとても驚いていた様子をよく覚えている。たくさんの連載をかかえていたこともあり、流行作家の急死は、ずいぶん長い事新聞紙上をにぎわしていたような気がする。

アトリエ棟には緑敏の絵のみならず、芙美子の絵も飾ってある。死の数日前にNHKの生放送に出ていたときの録音も聞くことができる。女子高校生相手に、女性の生き方を元気よく語っている。数日後に死を迎えるなど、まったく想像もできない歯切れ良さだ。まさに「花の命は短く」て、47歳だった。   (2014年3月23日 記)


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