27回 (北山田だより305号 2013年8月号より抜粋) 約100年前の日本の様子がよく分かる「故国に帰ってから」の紹介は、キリがありませんので、今回で終わりにするつもりです。アメリカ暮らし13年間に及ぶ新聞記者・開原榮氏ならではの日本観察がたまらなく魅力的です。 左の文は本の2頁。横浜港から新橋駅(祖父の家の近く)まで、院線電車に乗ったときの記述です。院線電車など、聞いたことないでしょうね。念のために母に聞いてみたら、「院線に乗り遅れるから急ぎなさいと言われたわ。新橋のあたりを走っていたのよ」と言うじゃありませんか。ボケている母の言う事をそのまま信じるわけにもいかず、例のごとく検索にGO! 結論から言うと母の記憶に間違いはなかったのです。細かい説明は省きますが、当時は「鉄道院」の管轄だったので、院線電車。 院線はともかく、文中にある風呂敷包みを背負った筒袖臀からげの鉄漿のお婆さん、法被股引の入れ墨お兄さん、角袖前掛けの小商人などは、まるで江戸時代の時代劇を見ているようじゃありませんか。明治維新から50年も経った大正5年の、花の東京の、しかも電車に乗るような人の服装が、こうだったのです。 アメリカの西部というと幌馬車で道なき道を行く西部劇を思い出しますが、サクラメントあたりは、ゴールドラッシュのおかげで、アスファルトだったのかもしれません。でも東京の凸凹道を自動車が800台も走っていたのですね。これが多いのか少ないのか。 下水の設備がない、汲み取りの大八車の行列、立小便、小供の所構わぬ糞小便、雪隠に紙の用意がない・・。 東京がこんなにも汚かったの!こんなにも公衆道徳心がなかったの!特に小供がところ構わず糞をしていたことに心底驚きました。 「電車の市電は四通八達でどこまで行っても片道6銭で安い。でも、人様の足を踏んでも、踏まれた方に却って落ち度があるような大きな面を下げている乗客には大に文句がある」という記述もあります。身体がちょっと触れただけでも“excuse me”と言うアメリカの生活に慣れていた開原さんが、憤慨したのも無理ないですね。中国人だけでなく、日本人もちょっと前まではこうだった・・と思い知らされました。「故国に帰ってから」を紹介してくれたヤング開原さんに、あらためて感謝です。 |