ヨルダン・シリア・レバノンの旅 4
「アラビアのロレンス」ロケ地
 (ヨルダン)

2005年1月13日(木)-3日目

 正午に、アカバのホテルを出発。「砂漠の道」をワディ・ラム(ヨルダン・シリア・レバノンの旅1の地図参照)へ向かう。途中までは、昨夜通ったと同じ道。夜は、黒々とした岩石が迫ってくるようで不気味だったが、昼間見ると、荒涼感だけがただよう。

 砂漠と言えば、サラサラした砂を思い浮かべる方が多いと思うが、ほとんどは、こうした岩石砂漠(右)である。

 デザート・ハイウェイのかなたに、線路が見えた。映画「アラビアのロレンス」には、ヒジャーズ鉄道(メッカとイスタンブールを結ぶ)を破壊する場面が何度か登場するが、今は、その線路を利用して、りん鉱石を輸送している。ちなみにヨルダンの主産業は、@りん鉱石 A死海グッズ B果物を主とした農業C観光業 Dセメントである。

 ワディ・ラムの入口・ディーサと呼ばれる地の「キャンプデザート」で昼食。大きなテントがレストランになっている。左写真は、レストラン入り口。

レストランの従業員全員が、アラブ革命軍の服装をしている(右)。もちろん、映画のロケ地を見学に来た観光客を意識しての演出だろう。ベドウィン出身のハンサムな青年が、見送ってくれた。

 ワディ・ラムは、アカバの北72キロにあり、25q×5qの広さ。ラムという山に囲まれた谷(ワディ)のことを指す。そそり立つ岩山に囲まれた細かな砂漠が印象的である。「アラビアのロレンス」の砂漠部分のロケは、ほとんどここで行われたので、一躍有名になり、ヨルダンではペトラに次ぐ人気スポットになった。

 昼食後、ロレンスの泉と言われる地へ向かった。砂漠は四輪駆動車でなければ走れない。普通のバスではタイヤが取られてしまうからだ。四輪駆動車というと、パジェロごとき車を想像するが、私たちが乗ったのは、軽トラックの荷台。風が吹きさらしで、凍えそうだった。砂漠の日中が必ずしも暑いわけではない。

 砂漠を横断中のロレンス達が、パイプを引いて生活用水を得ていたのでロレンスの泉と呼ぶ。実際、このあたりには、ヨルダン人を100年間養うことができる地下水が埋蔵されているという。

 今はシリアやイスラエルから水を輸入しているが、この地下水を利用すれば輸入しなくてすむ。日本にいると、水の輸入など考えられないことだが、こういう国もあるのだ。

 泉のそばの大きな岩に、BC6世紀頃のサムディアン人の文字(左)が残っている。

 先史時代から人類が生活し続けていた跡もあり、文字を持つ文明があった証である。

 この周辺の砂は、赤い。記念に小さな袋に詰めていると、かたわらで、大きなビニール袋に詰めている人がいる。

 「そんなに何するんですか」「僕は日本画家です。使えるかどうかわからないけれど、絵の具にするんです」の答えが返ってきた。日本画家Mさんには、帰る間際に、ペトラのスケッチをいただいた。

 再び軽トラックに乗り、ムズアリへ。BC2世紀のナバティア人の岩絵(右)が彫られている。

 高度な文明を持つ人達が、ここを舞台にいきいきと活躍していた様子がわかる。足場の悪い岩絵を見ていた時、画家のMさんは「この絵は見過ごしちゃダメ」と熱弁をふるってくれた。

 「アラビアのロレンス」を見て以来、砂漠の光景が目に焼き付いている。ワディ・ラムという地名は知らなかったが、ロケ地に行ってみたい思いは、以前からあった。映画と同じ光景に出会うのは当たり前だが、映画と同じ青い空・茶色の岩肌・サラサラ砂漠を目にした感激はひとしおだった。

ビジターセンターに戻り、軽トラックの旅は終わった。ビジターセンター前に、ロレンスの著書「知恵の七柱」の題名にもなった七つの柱の岩山(上)が聳え、またもや感激した。

 次は、今回の旅のハイライトとも言えるペトラに向かう。デザートハイウェイからキングスハイウェイに入った。キングスハイウェイは、エドム・モアブ・アモンの王が作った当時の幹線道路。ローマ時代に、トラヤヌス帝により拡張された。

夕方6時半ころ、ペトラのホテルに到着。 <ペトラにクラウンプラザ泊>(2005年6月2日 記)

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