メキシコの旅8(最終回)
 モンテ・アルバン遺跡とプエブラ

2012年3月25日(日)-12日目

ホテルから30分ほどで、モンテ・アルバン遺跡に着いた。モンテ・アルバンは、紀元前500年にサポテコ人が作った。最盛期は500年から750年。マヤ文明が全盛期を迎える前の遺跡だ。

見どころは、天文台跡とピラミッドの壁面にある「踊る人々」のレリーフ。「踊る」の名を誰がつけたか知らないが、実は楽しげに踊っているわけではない。目を閉じ口を開け血まで流れている。捕虜の拷問を表すレリーフだという。こういう説明を聞くと「すごい彫刻ねえ」など感嘆していられない。生贄など今の常識では考えられない残酷な遺跡がたくさんあった。もっとも、残酷さはメキシコに限ったことではない。

ミトラ遺跡に行く途中、エルトウーレという村に寄った。アメリカ大陸最大「トウーレの木」を見るためだ。高さ42m、幹回りは60m。糸杉の一種だそうだが、ゴッホの絵にある糸杉とは似ても似つかないほど巨大。

モンテ・アルバン遺跡 踊る人々のレリーフ ミトラ遺跡の幾何学模様
 
モンテ・アルバン遺跡は
マヤ文明が全盛期を迎える前

 
モンテ・アルバンのレリーフ
「踊る人々」。実は拷問の様子。

 
ミトラ遺跡の幾何学模様は
石をモザイク調にはめこんでいる。


ミトラ遺跡は、モンテ・アルバンを放棄したサポテコ人が作った。9から12世紀に祭礼センターとして栄えた。この遺跡の幾何学模様の壁は見事だ。小さく切った石をモザイク調にはめこんでいる。6本の石柱が等間隔で立つ石柱のホールも印象に残った。日本の場合は木製の柱なので腐ってしまい穴だけが残っていたりするが、遺跡としては石の迫力には適わない。

りゅーぜつ蘭の地下茎遅い昼食後に、メスカル酒の醸造所に立ち寄った。メスカル酒は、テキーラと同じようなもので、リュウゼツランの地下茎(左)で作られる蒸留酒。アルコール分は40%。

テキーラの原料はサボテンと聞いていたが、正しくはサボテンに似ているリュウゼツラン。テキーラはグアダラハラに近い地名で、オアハカに近いメスカルで作ったものはメスカル酒という。メキシコ人がいちばん飲むのは、ビールではなく蒸留酒だという。     <オアハカのビクトリア泊>


3月26日(月)-13日目

今日はメキシコシティまでバスで移動する。2日前とほぼ同じ道を戻る。もう少し上手にルートを作れないものかと思うが、春分の日の奇跡の頃は、思うように飛行機が抑えられないらしい。

オアハカからメキシコシティまでの間、何回か検問があった。中南米の国からメキシコを経由してアメリカにコカインなど麻薬が運ばれるためだ。だからメキシコシティからオアハカに向かったときは検問がなかった。うかつにも知らなかったのだが、メキシコはマフィアの活躍の場らしい。

途中プエブラメキシコの旅1の地図参照)というコロニアル都市に寄った。碁盤の目状に作られたスペイン風の街並みは、「もう見飽きたよ」と言いたくなるが、相変わらず見学場所は大聖堂、サントドミンゴ教会など。

昼食はメキシコ料理のモーレ。プエブラは郷土料理の発祥の地だそうだ。

ジャカランタの花 制服の女学生 派手なモニュメント
 
何度も見た
ジャカランタの花


プエブラの市場にいた
女学生。制服が日本と
似ている。

 
プエブラで見かけたモニュメント
こういう派手な色彩が似合う国

でも今日でメキシコも終わりだと思うと、買いもしない土産物屋をのぞいたり、大学生や女子高校生と話したり、いちゃついているカップルの写真を撮ったりと、プエブラの街を楽しんだ。相変わらず晴天、ジャカランタの花も美しい。

メキシコシティに戻り、3度目になる空港に向かった。何度も空港のカウンターに来ていると、誰でも気づくだろうけど、カウンターにいる女性は圧倒的に白人が多い。ホテルのフロントもしかり。テレビのキャスターも白人だ。メキシコ全体に占めるスペイン系白人は15%ぐらいにすぎない。同じ実力なら肌の色で差別されるということだ。もちろん清掃係などは先住民が多い。

スペインのコルテスが初めてメキシコ湾のベラクルスに上陸したのが1519年。300年を経て独立したのが1821年。独立後200年近くなるのに、いまだにスペイン系が優遇されている国。でも先住民との混血が60%も占めているのは心強い。陸続きのアメリカでは先住民と白人の混血は非常に少ないと聞いている。この違いはなんなのだろう。

メキシコシティ発(21時50分)

3月27日(火)・28日(水)-14日目・15日目

27日 ティファナ着(0時30分) ティファナ発(2時10分)   28日 成田着(6時45分) (2013年7月2日 記)

 

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