ミャンマーの旅 9(最終回) 2008年2月27日(水)−10日目 ヤンゴン市内観光の続きを書いている。シュエダゴオンパゴダの次は、国立博物館の見学。今までは撮影禁止の場所は皆無だったが、博物館の内部は撮影できないので、1枚も写真がない。 ミャンマーの歴史のコーナーの中では、ミャンマー文字の変遷が興味深かった。ミャンマーの文字は丸文字と言われ、○が多い。最初はワケが分からなかったが、帰る頃には数字だけは読めるようになった。車のナンバーを見ていたので自然に覚えたが、日本に帰ったとたんに忘れてしまった。33のアルファベットからなるミャンマー文字は11世紀ころに作られた。四角っぽい字だったが、20世紀にはいってから丸文字になった。 マンダレーの王宮で破壊を免れた獅子の玉座(左はパンフレットのコピー)や王族の衣裳や宝飾品を見ると、当時の文化の高さがわかる。玉座は、高さ8.1b、漆で固めた上から金細工が施されている見事なものだった。 次はチャウタッヂーパゴダで1905年に作られた新しい寝釈迦仏を見学。全長70b、高さ17bもあるが、全身が見渡せる台が作られているので、なんとか写真にも収まった。爪も赤いし唇も真っ赤。睫毛も長く肌も真っ白。優美というより、なまめかしいお顔のお釈迦様だ。日本ではとてもあり得ないようなお釈迦様。
ツアー最後の昼食をとったレストランの内装は、コロニアル調であか抜けしていた。竪琴と木琴(左)の演奏もあり、食事も美味しい。ミャンマーでは高級レストランなのだろう。 昼食後に、ヤンゴンの中心部をバスでゆっくり通り抜けた。鉄道の線路が見えたので「泰緬鉄道の終点はどこ?」と聞いてみた。泰緬鉄道のタイ側の起点はバンコクで、映画「戦場に架ける橋」の舞台になったカンチャナプリに行ったことがある。だからビルマの終点も見たかったが、市内から少し離れた所にあるらしい。
2007年9月、散々お茶の間に流れたお坊さん達のデモの現場はどこか、そしてカメラマンの長井さんが襲撃された現場はどこか。みんなが知りたがったので、「このあたりではないか」と通りを教えてくれた。ガイドのカインさんは日本人が何度も見た映像を、テレビでは見ていない。日本人の知り合いにビデオを見せてもらっただけだ。これとて軍部に見つかったら、ただじゃすまないかもしれない。 中国の天安門事件の映像も世界各地に流れたのに、当の中国では放映されなかった。同じようなことが、ミャンマーにもある。 ヤンゴンの中心部のスーレーパゴダ付近で、バスを停めてくれた。このパゴダの周囲4方に大きな道路が延びている。迷子になったらこのパゴダを探せば良いそうだ。イギリスに統治されていた頃のビル、市役所・最高裁判所などがいくつか残っていた。薄汚れてはいるが、まぎれもなくイギリスのビクトリア朝時代のビルである。 ボージョーアウンサンマーケット(左)で50分のフリータイム。衣類・貴金属・土産物がぎっしり並ぶマーケットだ。50分という時間は、何も買わない人には余るが、買いたい物がある人には足りない。前から欲しかった漆のお盆を大急ぎで探してゲット。外国で買った物は、結局は使わない事が多いが、これは模様も気に入ってよく使っている。 5時半頃、ヤンゴン国際空港へ着いた。去年できた新しい空港だが、土産物屋があるわけでもない。今までの現地ガイドは、出発手続きが終わるとさっさと姿を消すが、カインさんはいつまでも見送ってくれた。久しぶりのツアーで、しかも10日間も一緒だったので、愛着を持ってくれたようだ。私達も別れがつらい。何度も手を振りながら別れた。 20時15分(ヤンゴン発)→21時55分(バンコク着) 30分の時差があるので2時間半のフライト。バンコクで関西空港組4人と中部空港組3人とお別れ。 |