2008年2月18日〜2月28日 |
ビルマの竪琴 落ちそうで落ちないパゴダ インレー湖 タウンジーとピンダヤ マンダレー 日本人慰霊碑 バガン遺跡 ホッパ山とヤンゴン ヤンゴン市内 |
ミャンマーの旅1 ミャンマーと言ってもピンとこない方がいるかもしれませんが、もとの国名はビルマ。私たちが訪ねたのはミャンマーを襲ったサイクロンの約3ヶ月前ですが、「1年前の災害の復興が進まない」と、ごく最近のニュースは伝えています。旅行記は帰国後すぐに書きますが、ホームページ化が遅れています。旅行記は、ガイドのカインさんがていねいに目を通してくれたので、間違いは少ないと思います。その点は安心してお読みください。 2008年2月18日(月)−1日目 10時45分(成田発)→タイ航空で→15時45分(バンコク着) 日本とタイは2時間の時差。7時間のフライト。 成田空港からの16人と関西空港からの4人と中部国際空港からの3人が、バンコクで合流。ほとんど同じ時刻に、日本の3ヵ所からバンコク行きのフライトがあるようだ。23名のツアーである。 ヤンゴン行きの待合室には、えんじ色の袈裟を着た僧5〜6人の集団(左)がいた。映画「ビルマの竪琴」の世界が目の前にある。袈裟が僧侶の正装だとは分かっているが、右肩の肌を出した姿で飛行機に乗るので驚いた。 18時(バンコク発)→18時45分(ヤンゴン着) タイとミャンマーは30分の時差。1時間15分のフライト。 ヤンゴンに到着。ここも以前は、ラングーンと呼んでいた。空港で、現地ガイドのカイン・カイン・スエさんが出迎えてくれた。以後カインさんと呼ぶ。 「ミャンマーに行ってくる」と友人に話すと、「また危ない国に行くのねえ」とあきれられた。軍事政権に反対する僧侶のデモが起こったのは、2007年の9月。現場を撮影していた長井さんが、軍人に襲撃されるというショッキングな映像が茶の間に何度も流れた。ほとんどの日本人が、ミャンマーは野蛮で危険な国だと思っても仕方がない事件だった。 空港からホテルに向かう道すがら、ライトアップされたパゴダがきれいに見えた。「もうパゴダはたくさんだ!」と言うほど見る事になるとはこの時は知らず、闇夜に浮かぶ幻想的なパゴダに感激した。 ミャンマーと言えばパゴダと言っても過言でないほど、パゴダは至る所にある。パゴダは日本の仏舎利塔や五重塔と同じようなもので、釈迦の骨や髪の毛が入っていると言われる。「ほんとに入っているはずないわ」と、日本で説明を受けるたびに思っていたが、ミャンマーとなるとその数が半端じゃない。その全部に、1人の人間の骨や髪の毛が入っている事などあり得ないのにな。<ヤンゴンのニッコーロイヤルレイク 泊> 2月19日(火)−2日目 ホテルは中心街からは少し離れているが、カンドージ湖に面した静かな環境にある。ビュッフェの朝食後、出発までの時間に湖やホテルの庭を散策。庭には四面仏という四面に顔を持つ仏が、鎮座していた。仏教の国に来たのだ。 日本の中古車バス(左)で観光に出発。「中央バス」という漢字を消さないで、そのまま使っている。以後、各地でバスを利用したが、すべて日本の中古バス。一度もエンストすることなく快適だった。 ミャンマーの面積は日本の1.8陪、人口は5400万人ぐらいだから、日本に比べ人口密度は低い。ビルマ族が70%を占めるが、他にもシャン族・カレン族、ラカイン族・華人・モン族・インド人などがいる。これら以外にたくさんの少数民族がいることもミャンマーの政治をややこしくしているようだ。 ホテルのすぐ側に、日本の大使館や公邸があった。ガイドのカインさんは来日したこともないし、大学の専攻は数学だったというから、一度も正式に日本語を習ったことがない。でも、語彙が豊富で説明も的確だった。日本語の発音が少々おかしいのは、ユーモアと明るさでカバー。おそらく全員がカインさんのファンになったように思う。まだ独身なので「息子の嫁にしたい」と言う人もいたほどだ。 カインさんが中高生の頃に政変が起きて、学校は閉鎖。僧院で中国語や日本語を勉強した。日本語を学ぶきっかけは、政変だったのだ。今もヤンゴンにいる日本人にボランティアで日本語を教えてもらっている。日本大使館主催の「スピーチコンテスト」でベスト20に選ばれたこともある。こんな風に一生懸命に日本語を勉強しているのに、政変や先日の襲撃事件のようなことがあると、せっかくの日本語が使えない。 車窓から通学・通勤の人達が見えた。トラックに簡単な座席があるだけの「トラックバス」にぎゅうぎゅう詰めで乗っていた。 10時ちょっと前に、ヤンゴンの北東70キロにあるバゴーの町に入った。途中、高速道路にも乗ったが、ここの高速道路は牛や自転車も通る。ミャンマーには7州・7管区があり、バゴーはバゴー管区の州都。13〜16世紀にモン族の王都として栄えた。町のシンボルのオシドリ像があちこちにあった。ヤンゴンでは危険だからと禁止されているバイクが、バゴーでは走っている。それだけバゴーがのんびりした町だということだ。 バゴーでの見学は、994年にモン族の王によって作られたシュエターリャウン寝釈迦仏。全長55bもある。モン族滅亡後に置き去りにされ、ジャングルでのんびり寝転がっていたのに、イギリスの植民地時代に発見されてしまった。今は体育館みたいな大きな建物に覆われて保護されている。
釈迦が横たわっている像は、タイやマレーシアで何体か見ている。寝そべっている仏はすべて涅槃仏だと思っていたが、カインさんの説明によれば、涅槃仏の場合は足がきちんと揃っていて足の裏にお経など書いてない。 この寝釈迦仏は映画「ビルマの竪琴」のロケに使われたという。私は安井昌二主演のモノクロ作品(1956年)と中井貴一主演のカラー映画(1985年)の両方を見ている。でもこんな立派な寝釈迦仏ではなかった。荒涼とした野原にあった。帰国後に読んだ椎名誠の「秘密のミャンマー」には「日本人にはビルマの竪琴の寝釈迦仏と説明した方が喜ぶと、ガイドは言われているらしい」と書いてあった。日本人がバカにされているような気がしないでもない。 ビルマの僧侶は、竪琴を弾いたり歌を歌うことは禁止されている。だからあの映画の水島上等兵のようなことはあり得ず、ビルマで上映されることはないそうだ。でも、ビルマと言えば、「ビルマの竪琴」しか思い出さない日本人もいる。それほど、あの映画が日本人に与えた影響は大きい。
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