日本史ウオーキング

  5. 弥生式土器発掘地(弥生時代)

 縄文時代は、モースが発見した縄文土器からの命名だが、弥生時代も、弥生式土器にちなんでつけられた。弥生時代の遺跡といえば、以前は静岡県の登呂が有名だったが、今は佐賀県の吉野ヶ里が教科書のグラビアを飾っている。

 この2つは追々記すとして、弥生時代の名前の元になった地をまず取り上げたい。3月19日、いつもの3人で行ってきた。

 東京都文京区弥生2丁目11に「弥生式土器発掘ゆかりの地」なる碑(左)が建っていた。東大の浅野キャンパスの一角、言問通りに面した所。

 東京大学浅野地区遺跡案内として、文京区教育委員会による次の説明があった。平成18年3月10日に設置したばかりの真新しい案内板だ。次の<>の部分は、説明の一部。

 <東京大学浅野地区の名称は、明治20年(1887)「本郷区向ヶ岡弥生町」に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分が大学敷地になったことに由来しています。

 
浅野地区工学部10号館の西側には文政11年(1828)3月10日に水戸藩中屋敷が建てられ「向ヶ岡弥生町」の町名由来となったとされる「向ヶ岡碑」が置かれています

 浅野地区は「弥生時代」の名称の由来となった土器が発見された「弥生町遺跡」の一角にあたり、弥生時代の遺跡が確認されました。・・・>

 
弥生式土器の発見は、明治17年。モースによる縄文式土器の発見が明治10年だから、遅れること7年。東大の学生だった有坂氏らが、根津の谷から、赤焼きの壺を発掘した。後に、縄文土器と違うことが認められ、弥生式土器と命名された。彼らは発掘地を正確には書き残していなかっので、候補地は数カ所あった。この碑が、「発掘地」ではなく「発掘ゆかりの地」となっているのは、そんなあいまいさの故かもしれない。

 しかし、今では、明治17年の発掘地は、ほぼ確定されている。昭和49年春、根津小学校の児童が東大浅野地区の工学部9号館わきで、土器破片や貝殻を見つけた。

 これがきっかけで、専門家が調査を行った結果、明治17年の土器と似ている弥生式土器も見つかった。有坂氏らが書き残した周辺の記述とも合致した。子どもの遊びが、思わぬ発見につながったのだ。

 工学部9号館は、本郷キャンパスと道路を隔てた、浅野キャンパスにある。構内は、誰でも自由に出入りできる。興味のある方は、ゆかりの地の碑だけでなく、一歩構内に入って、9号館付近の弥生二丁目遺跡(左地図参照)まで足を運んだらどうだろうか。地下鉄千代田線の「根津」からは、わずかな距離にある。

 弥生時代が弥生式土器からの命名、弥生式土器は発掘地の町名から取ったいうことまでは分かったが、弥生町の町名はどこから来ているのだろう?碑の側に、町名由来の説明(<>の部分)もついていた。

 <江戸時代は 御三家水戸藩の中屋敷であった。明治2年新政府に収用され、同5年町屋ができて、向ヶ岡弥生町と名づけた。町名のいわれは、文政11年(1828)3月10日・水戸家9代徳川斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。

 「ことし文政十あまり一とせといふ年のやよいの十日 さきみだるさくらがもとにかくはかきつくこそ」
と述べ、次の歌が刻まれていた。「名にしおふ春に向ヶ岡なれば世にたぐひなき花の影かな」>

 説明を要約すると、弥生町は、水戸家の徳川家斉が、弥生3月に、弥生の名がある歌碑を建てたことから来ている。なんのことはない。日本人の誰もが馴染んでいる弥生時代は、元をたどれば、弥生3月から来ているのだった。とてもわかりやすいルーツだ。
 
 左が、明治17年に、有坂氏らが発掘した記念すべき土器である。色合い・焼成温度・作り方からみて、縄文土器とは違う。

 発掘地を訪れたからには、「最初の弥生式土器を見たい」とは誰もが思うことだ。東大の総合研究博物館が所有していることがわかったので、行ってみた。残念ながら、特別展を開催していたので、この土器は展示していなかった。

 写真は、HPから拝借した。弥生時代後期 頸部径8.4a・胴部最大径22.7a・底部径8.5a・高さ22aとなっている。割と小振りな壺だ。
 
 東京大学総合研究博物館は、赤門から右側に数分歩いた所にある。10年以上前から一般に無料開放しているが、私は初めて博物館の存在を知った。

 お目当ての弥生式土器には会えなかったが、博物館で思わぬ収穫があった。内容と時代が違いすぎるので、次の項で記す。(2006年3月27日 記)

感想や間違いをお寄せ下さいね→
日本史ウオーキング1へ
次(ラミダス猿人)へ
ホームへ