日本史ウオーキング
    61. 宿場町 (江戸時代)

前項で城下町・岡崎を取り上げたので、ここでは宿場町・岡崎を書いてみたい。今の岡崎には、宿場町として賑わった頃の風情はないが、当時は53宿の中で3番目ぐらいの規模だったという。

岡崎の宿天保14(1843)年の「宿村大概帳」によると、岡崎には、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠屋112軒もあった。本陣、脇本陣、旅籠屋の数は、いずれも3番目。町並みの長さは東海道1だったという。

ちなみに、本陣が多かったのは箱根と浜松の6軒、2番目が小田原の4軒。いかにも本陣が多そうな宿場だ。

旅籠屋で多かったのは宮の248軒、2番目が桑名の120軒。宮は名古屋の熱田神宮に近い宿場。桑名は伊勢神宮に近い宿場。宮と桑名は陸路ではなく「七里の渡し」でつながっていた。庶民が泊まる旅籠屋が宮と桑名に多いのは、お伊勢参りが盛んだったからだろう。

岡崎城は「神君出生の城」だから本陣や脇本陣が多いのは当然だが、旅篭屋も多かった。城下町であると同時に、経済活動も活発だったに違いない。

左は、葛飾北斎の東海道五十三次の版画集のコピー。昭和6年発行の北斎版と昭和8年発行の広重版を、実家からもらってきた。よく見慣れている広重の版画ではなく、あえてマイナーな北斎版画を載せることにした。

岡崎城は右上に小さく見えるだけで、中心は矢作橋である。「五万石でも岡崎さまは お城下まで船がつく」とうたわれているように、矢作川の水運とともに発展してきた。蜂須賀小六と日吉丸(秀吉)が出会ったのもこの橋である。
 
矢作橋今も矢作橋は残っている。八丁味噌の老舗「カクキュー」は、矢作橋に近いところに工場を構えているが、店のロゴ(左)に小六と日吉丸の出会いの絵を使っている。

カクキューの工場を見学したときに「日吉丸は当店に忍び込み盗んだ”こも”を被って、橋の上で寝ていたんです」と、説明してくれた。盗まれたことを自慢しているわけで、おもわず吹き出したくなった。

岡崎城から西へ八丁(約870m)離れた八丁村で、味噌の仕込みを始めたので「八丁味噌」という。

八丁味噌以外にも老舗はある。ホテルから岡崎城に向かって「二十七曲り」の案内板に従って歩いていたら、伝馬通りで、老舗を数軒見つけた。

備前屋 精肉店 カクキュー
 伝馬通りの角に建つ
和菓子の備前屋
天明2(1782)年創業

伝馬通りにある精肉店
創業123年になる
松坂牛の専門店

 
八帖町にある
「カクキュー」の 工場
なぜか住所は八帖という字


伝馬通りは面白い。宿場町に関連するユーモラスな石の彫刻が20も建っている。どの宿場町にも共通していることなので、20のうち8つを載せることにした。石細工が盛んな岡崎ならではのモニュメント。

本陣・脇本陣 人馬継立 助郷 飯盛女

参勤交代のときに大名や公用旅行者が宿泊する宿を本陣や脇本陣という。岡崎は軒数も多いうえに、いずれも豪壮な建物だった

 

各宿場で人や馬を引き継ぐことを人馬継立という。公用旅行者は無料や半額だったが一般旅行者は金額を払った 

宿場だけでは足りない人馬を70人と80匹、周辺の村から出してもらう制度を助郷という。助郷になった村の負担は大きかった


旅篭で旅人の給仕や雑用をする女性を飯盛り女という。遊女も兼ねていたので、風紀が問題になり取り締まったが効果はなかった
 
往来手形 お茶壺道中 御馳走屋敷 朝鮮通信使

一般旅行者は、東海道の通行許可証が必要でそれを往来手形という。宮参りなどは簡単に手形が出たので、お伊勢参りと称する物見遊山の旅も盛んになった


宇治茶を将軍家に献上するための道中をお茶壺道中という。宿場は100人の人足を出さねばならない定めで、負担が非常に大きく、恐れられていた

 

ご馳走は接待することをいう。岡崎のご馳走屋敷は間口が15間もあった。勅使、御三家、お茶壺道中、朝鮮通信使の場合は家老が出向いて 接待にあたった


江戸時代を通して朝鮮から12回の使節があった。一行は平均500人にもなるもの。岡崎宿は将軍の言葉を伝える最初の宿泊地だったので一大行事だった 



田中吉政今の岡崎の基が出来たのは、江戸時代ではない。秀吉が天下をとった天正18(1590)年に、秀次の家老として岡崎に入った田中吉政(左)が10年かけて作り上げた。

岡崎に行くまで聞いたことがなかったが、豊臣秀吉に「吉」の字をもらったほど重用された人だ。東海道から城までの距離を長くすることで、攻撃をさけようと考え、間道を利用して屈折の多い道を作った。それが「二十七曲り」だ。

東海道から、欠町・両町・伝馬通り・籠田・連尺・材木町・町田・板屋町・八帖町・矢作橋とつながり、また東海道に出る。

東海道を通る旅人は、二十七曲りを通らざるをえなかった。東海道一という町並みの長さは、こうして出来上がった。商店もたくさんできて、宿場町としても賑わうようになったという。

今も面影が残る二十七曲がりを作った田中吉政は、秀吉の部下。徳川が倒した豊臣側の人だ。なのに、徳川の天下になり、しかも「神君出生の地」として誇りをもつ岡崎で、彼が作った町並みをそのまま残した。よほど良い道だったのだろう。

二十七曲がり私はそのほとんどを歩いてみたが、道筋には分かりやすい道標も立っていた。そして銅像まである。徳川さまさまのここで、銅像があることにも驚いた。「いまさら豊臣だ徳川だと構えることもありませんよ」という岡崎市民のおおらかさなのかもしれない。

左は岡崎城の大手門近くにある「岡崎城下東海道二十七曲り」の看板。是より東岡崎領、是より西岡崎領の立札も建っている。
                          (2014年5月9日 記)


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