前項で城下町・岡崎を取り上げたので、ここでは宿場町・岡崎を書いてみたい。今の岡崎には、宿場町として賑わった頃の風情はないが、当時は53宿の中で3番目ぐらいの規模だったという。 天保14(1843)年の「宿村大概帳」によると、岡崎には、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠屋112軒もあった。本陣、脇本陣、旅籠屋の数は、いずれも3番目。町並みの長さは東海道1だったという。 ちなみに、本陣が多かったのは箱根と浜松の6軒、2番目が小田原の4軒。いかにも本陣が多そうな宿場だ。 旅籠屋で多かったのは宮の248軒、2番目が桑名の120軒。宮は名古屋の熱田神宮に近い宿場。桑名は伊勢神宮に近い宿場。宮と桑名は陸路ではなく「七里の渡し」でつながっていた。庶民が泊まる旅籠屋が宮と桑名に多いのは、お伊勢参りが盛んだったからだろう。 岡崎城は「神君出生の城」だから本陣や脇本陣が多いのは当然だが、旅篭屋も多かった。城下町であると同時に、経済活動も活発だったに違いない。 左は、葛飾北斎の東海道五十三次の版画集のコピー。昭和6年発行の北斎版と昭和8年発行の広重版を、実家からもらってきた。よく見慣れている広重の版画ではなく、あえてマイナーな北斎版画を載せることにした。 岡崎城は右上に小さく見えるだけで、中心は矢作橋である。「五万石でも岡崎さまは お城下まで船がつく」とうたわれているように、矢作川の水運とともに発展してきた。蜂須賀小六と日吉丸(秀吉)が出会ったのもこの橋である。 今も矢作橋は残っている。八丁味噌の老舗「カクキュー」は、矢作橋に近いところに工場を構えているが、店のロゴ(左)に小六と日吉丸の出会いの絵を使っている。 カクキューの工場を見学したときに「日吉丸は当店に忍び込み盗んだ”こも”を被って、橋の上で寝ていたんです」と、説明してくれた。盗まれたことを自慢しているわけで、おもわず吹き出したくなった。 岡崎城から西へ八丁(約870m)離れた八丁村で、味噌の仕込みを始めたので「八丁味噌」という。 八丁味噌以外にも老舗はある。ホテルから岡崎城に向かって「二十七曲り」の案内板に従って歩いていたら、伝馬通りで、老舗を数軒見つけた。
伝馬通りは面白い。宿場町に関連するユーモラスな石の彫刻が20も建っている。どの宿場町にも共通していることなので、20のうち8つを載せることにした。石細工が盛んな岡崎ならではのモニュメント。
今の岡崎の基が出来たのは、江戸時代ではない。秀吉が天下をとった天正18(1590)年に、秀次の家老として岡崎に入った田中吉政(左)が10年かけて作り上げた。 岡崎に行くまで聞いたことがなかったが、豊臣秀吉に「吉」の字をもらったほど重用された人だ。東海道から城までの距離を長くすることで、攻撃をさけようと考え、間道を利用して屈折の多い道を作った。それが「二十七曲り」だ。 東海道から、欠町・両町・伝馬通り・籠田・連尺・材木町・町田・板屋町・八帖町・矢作橋とつながり、また東海道に出る。 東海道を通る旅人は、二十七曲りを通らざるをえなかった。東海道一という町並みの長さは、こうして出来上がった。商店もたくさんできて、宿場町としても賑わうようになったという。 今も面影が残る二十七曲がりを作った田中吉政は、秀吉の部下。徳川が倒した豊臣側の人だ。なのに、徳川の天下になり、しかも「神君出生の地」として誇りをもつ岡崎で、彼が作った町並みをそのまま残した。よほど良い道だったのだろう。 私はそのほとんどを歩いてみたが、道筋には分かりやすい道標も立っていた。そして銅像まである。徳川さまさまのここで、銅像があることにも驚いた。「いまさら豊臣だ徳川だと構えることもありませんよ」という岡崎市民のおおらかさなのかもしれない。 左は岡崎城の大手門近くにある「岡崎城下東海道二十七曲り」の看板。是より東岡崎領、是より西岡崎領の立札も建っている。 (2014年5月9日 記) 感想や間違いをお寄せ下さいね→ 日本史ウオーキング1へ ホームへ |