南米の旅 12回(最終回)
 ナスカの地上絵

2005年9月14日(水)-13日目 

今日はナスカの地上絵を見ることになっている。ナスカから100キロほど離れたイカという街に泊まっているので、朝7時半には出発。午後になると雲や風が出て、セスナ機が飛ばない可能性があるという。

今回の旅でいちばんの心配は、地上絵見物中に酔ってしまわないかということだった。ガイドブックや旅行会社の注意書きには、「ひどく揺れる」とは書いてないが、個人の旅行記には、「もうヘロヘロ〜」などの記述が多い。私は、ラスベガスからグランドキャニオンへ小型飛行機で飛んだ時に気持ち悪くなったことがあり、要注意なのだ。酔い止め薬は何時に飲めば効果的かを調べ、昨夜から今朝にかけて、食事の量も極端に減らした。

 地上絵を堪能するには、6人乗りの小さなセスナ機に、40分も乗るっきゃないのだ。普通のフライトと違い、絵が見やすいように、上下左右に何度も何度も転回する。

 同じ機に乗った2人の女性が、5分も経つと、まったく声を発しなくなった。「乗り物酔いなどしたことがないわ」と言っていた人達にしてそうである。首を左右や上下に動かすと酔いやすいと聞いていたので、私は、ほとんど1点だけを眺め、視界に入る絵をカメラにおさめた。

証明書 アクロバット飛行の40分は長い。「早く終わらないかな」と祈っていた。別の機に乗った人の中には、吐いた人もいる。昼食を摂らなかった、というより摂れなかった人が5人もいた。

 こんな飛行を喜んだ人は皆無かもしれないのに、セスナ機の社長が、1人ずつ乗機証明書(左)を手渡してくれた。乗っただけで証明書など大げさ。

このツアーは悪条件が重なっていた。日本を出てから13日目。連日の強行軍で、体力が落ちていた。私のように丈夫でない人は慎重に行動するが、日頃体力に自信がある人ほど、具合が悪くなった。もしこれが逆コースで、旅の初めのフライトなら、こうはならなかったかもしれない。

「ガラス越しなので、地上絵はきれいには撮れませんよ」と、ガイドの川又さんが言った。しかし、バカチョンカメラに、コンドルハチドリ、サル、ペリカン、宇宙飛行士、クジラ、クモ、ペリカンがはっきり写っていた。天気次第では、ナスカに来ても、セスナ機が飛ばないこともあるという。見学できたのはラッキーと考えることにしよう。

宇宙飛行士 コンドル ハチドリ
宇宙飛行士 コンドル ハチドリ

ナスカの地上絵は、NHKが調査した「行ってみたい世界遺産」で堂々12位。空からしか見えないこと、誰が何の目的で作ったか未だに謎。そんなことが、ロマンをかきたてるのかもしれない。

ナスカ文化は紀元100年から600年頃に、プレインカ文化として発展した。地上絵以外に、土器や織物も有名だ。ナスカの地上絵が有名になったのは、1941年、アメリカのコソク教授が「世界一大きい天文カレンダー」と宣言してからである。

目的はわからないが、広大な平原に、直線、三角形、動物、魚、虫を描いた。どのようして描き、何を意味したのか。これもいまだ謎である。雨がほとんど降らないので、保存状態が良いそうだ。

どのようにして描いたのか。川又さんは「@小高い丘に指導者がいて、指揮をとった。A気球に乗って指揮をした。B小さな絵を描いて拡大したなど諸説あります。はっきりしたことは、わかっていないのです」とクールに話した。

ミラドール

昼食後、観測塔(ミラドール)に登った。観測塔とはいえ、さほどの高さはない。ここかから見える地上絵は、「手と木」と名がついている一部。カメラにおさめようにも、全部は入らないし、単なる線にしか見えない。改めて地上絵の大きさを実感した。左写真は、セスナ機から見たミラドールと「」。

来た時と同じパンアメリカンハイウェイを400キロ走り、リマに戻った。車窓からリマ市街地の観光。日本大使館が人質事件の舞台になったのは、1996年。10年も前の事かと、感慨深く外観を眺めた。

和風レストラン「ふじ」に着いたのは、夜の8時。ここで日系人移住者の苦労話を聞くことになっていたが、経営者が店の宣伝をしただけで終わった。

9月15日(木)・16日(金)―14・15日日目

リマ(1時5分発)→ロス(7時40分着)

 ロスでは、またもや顔写真の撮影と指紋採取があった。係員が優しそうなアジア系の顔だったので「私は2週間前にも指紋をとられた。なぜ又とるの」と聞いた。「2週間で変わることもある」というような答えだった。ヤーさんでもあるまいし、指紋など変えないってば〜。
ロス発(15日10時5分)→成田着(16日 13時35分着) (2006年12月2日 記)

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