スペインの旅5 (最終回)
 

パリには立派なピカソ美術館があり地下鉄の駅名にもなっているので、ピカソはフランス人だと勘違いするが、1881年にスペインのマラガで生まれた。マラガやバルセロナで学び1904年頃にパリに移った。その後1973年に亡くなるまでスペインに遊びに行くことはあっても、スペインに居を移すことはなかった。

ピカソは多作として知られるが、13,500点の油絵と素描、10万点の版画、300点の彫刻と陶器などを残している。その中で、あえて代表作を選ぶとなると「ゲルニカ」をあげる人が多い。撮影が禁止されているので、下の絵は絵葉書をスキャンした。





ゲルニカはスペインバスク地方の都市である。「ゲルニカ」が描かれた頃のスペインは左派と右派の対立が激化。共和国軍の左派をソ連が、フランコ将軍を中心とする右派をイタリア・ドイツ・ポルトガルが支援した。そんな時、1937年4月26日にドイツ軍がゲルニカを空爆。ゲルニカは交通の要で、通信施設などがあったので共和国軍にダメージを与えるには恰好の都市だった。

パリでゲルニカ空爆を知ったピカソは、パリ万国博のスペイン館に展示する壁画を制作していたが、急にテーマを「ゲルニカ」に変更したという。油彩よりも乾きが早い工業用ペンキを使い、6月4日には出来上がった。空爆から1ヶ月ちょっとで、縦3.5m、横7.8mの大作を完成させたことになる。フランコ将軍やドイツ軍への怒りが目に浮かんでくる。人間のような目をもった闘牛の頭、子どもを抱きかかえて泣き叫ぶ母親狂ったように叫ぶ馬、逃げる人々や動物、倒れている人など描かれている。解釈はいろいろあるようだが、ピカソは絵画そのままを感じ取ってほしかったようだ。

「ゲルニカ」が展示されているのは、マドリードの「ソフィア王妃芸術センター」である。私は2度目の対面だったが、これほど反戦のメッセージが込められている絵は他にはないような気がする。ちなみに、ゲルニカは撮影禁止だが、撮影してもいい作品がある。

 
ソフィア王妃芸術センターの外観

 
モニュメント

 
ダリの作品



ソフィア芸術センターに「ゲルニカ」が展示されて、まだ25年にもならない。万博のスペイン館のために制作したが、1939年にはフランコがマドリードを陥落させた。フランコ政権下のスペインに渡すわけにはいかない、ヨーロッパでも第二次世界大戦がはじまり、パリとて作品が無事に保管される保証はない。結局アメリカのニューヨークのMoMA美術館に保管展示してもらうことになった。ゲルニカ完成直後こそ評判はあまりよくなかったが、全世界的に戦争が広まるにつれ、反戦と抵抗のシンボルになっていった

1975年にフランコ将軍が死去したことでスペインに民主主義がもどってきた。ピカソはその2年前に亡くなっていたが、スペインは「ゲルニカ返還」をこぞって希望。ピカソ生誕地のマラガ、青春時代を過ごしたバルセロナ、空爆されたゲルニカ、プラド美術館の4か所が名乗りをあげたが、1981年にプラド美術館に落ち着き里帰りを果たしたことになる。

1992年にソフィア王妃芸術センターが新しくできたことで、ここに移された。ソフィア芸術センターには、ゲルニカ以外のピカソ、ミロ、ダリなどスペイン現代画の巨匠の作品もあるが、収蔵数はプラド美術館に比べ少ない。でも「ゲルニカ」のおかげで、プラド美術館より入場者数が上なのだと現地ガイドが話してくれた。

「ゲルニカ」が描かれたいきさつやその後の変遷を知ると、「よくぞ無事でいてくれましたね」と、絵の前で思わずにはいられない。ピカソは言うまでもなく20世紀最大の画家。ついつい華麗なる女性遍歴にも目を向けてしますが、強い政治的信念を持っていたことに驚く。フランコがいるスペインには背を向け、生涯フランス共産党の党員だった。

   

 15歳の頃の作品
 
青の時代の作品
 
ピカソ美術館の入り口



長々とゲルニカについて書いてきたが、私が特に気に入っている絵ではない。バルセロナのピカソ美術館にある少年の頃の作品や「青の時代」の絵が好きだ。闘牛のスケッチ画も気にいっている。「ピカソも最初は普通の絵を描いていたのね」と当たり前のことを実感した美術館だった。

このピカソ美術館は古い歴史地区にあり、その辺りを歩くだけで楽しい。以前に来たときは入館したが、フリータイムには他に行きたい場所があり、その前を通っただけだった。そんな私が言うのも変だが、ぜひお勧めする。上の写真は前に来た時に買った画集をスキャンした。          (2017年5月16日 記)

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