ウズベキスタンの旅8(最終回)
  

ヒヴァウズベキスタンの旅1の地図参照)は州都のウルゲンチ近くのオアシス都市。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の出入り口として栄えた。高さ8〜10m、厚6m、長さ2250mの城壁が残っている。この城内をイチャンカラという。イチャンカラの城内には20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットがある。

イチャンカラの城内


カルタ・ミノル

 
未完のミナレット

 未完のミナレット みやげ物屋がたくさん


未完成のミナレット 1852年に着工したが高さは26メートルで未完のまま 基礎部の直径は14.2mもあることから、90mの高さを目指していたようだ。

クフナ・アルク

17世紀建立の古い宮殿という意味のハンの宮殿

タシュ・ハウリ宮殿

1838年建立。クフナ・アルクに匹敵する宮殿として作られた。ヒヴァの中ではもっとも豪華なタイル装飾がある。

ジュマ・モスク

3メートル間隔で213本の木の柱が並ぶモスク。柱の彫刻はすべ違う。

イスラム・ホジャ・メドレセとミナレット

ヒヴァ最後のハンの大臣イスラム・ホジャによって1910年に建立 ミナレットは45メートル 大臣は人気があったためにハンと聖職者により殺害された。


 
クフナ・アルクというハンの宮殿


 
タイルが豪華なタシュ・ハウリ宮殿
 
213本の柱があるジュマモスク
 
イスラム・ホジャ・メドレセとミナレット


シルクロードの名残

シルクロードが使われなくなってから久しいので、当然かもしれないが、その名残はほとんどなかった。ヒヴァに行く途中のチャイハネで食べた串焼きはおいしかった。ヒヴァの郊外ではロバを引いているおじいさんに会った。この2つのシーンが私にとってのシルクロード。


 焼きたての串焼きで昼食
 
干草を運んでいるロバ 


タシケント

ヒヴァの次は飛行機でタシケントウズベキスタンの旅1の地図参照)に飛んだ。最後の訪問地がタシケントである。左は緑が多いタシケントの市街地。

地図を見てもらうとすぐ分かるが、ヒヴァはウズベキスタンの西部、タシケントは東部に位置する。

タシケントはウズベキスタンの首都。人口279万人 11世紀にはシルクロードの中継点としてもっとも栄えた。

ソ連に支配されていた1966年に大地震に見舞われたが、ロシアから大量の労働者が派遣され近代都市に生まれ変わった。車が多いので4年前に市電をとりのぞき、その市電はサマルカンドで使っている。

ティムールの広場

新市街の中心地の広場にティムールの銅像(ウズベキスタンの旅2を参照)がある。ティムールの生誕地ばかりでなく、ここでも英雄なのだなと改めて感じる。地下鉄駅の地下通路を上がった所に広場があるが、地下道の入り口には警官がいて身分証明のチェックをしている。私たちはコミル君と一緒だからその必要はなかったが、何を警戒しているのだろうか。

ナボイ劇場 

ソ連の捕虜になった旧日本兵によって建てられた。1966年の大地震でもびくともしなかったので、評価が高まっている。肝心なのは労働者ではなく設計者だと思うが、誰だったのだろう。同じチャーター便に乗っていたW社の人たちは、この劇場でミニコンサートを聴いたそうだ。私たちは外観のみ。

 
立派なナボイ劇場

 
数百名の日本人が建設に参加したとの説明

日本人墓地 

抑留後亡くなった79名の墓地。戦争で生き残ったのに、抑留中に亡くなるなんて、なんと運が悪いのだろう。「ごくろうさまでした」と頭をさげた。ここはイスラム教徒の墓地をちょっと借りたような一角。墓地が作られたのは1999年。ソ連時代は、許されなかったのだと思う。

日本人墓地よりずっと目を引いたのはイスラム教徒お墓。故人の顔が描かれていて、リアルである。
 
 
墓地の入り口にある碑 「永遠の平和と友好 
不戦の誓いの碑」とある

 
ウズベキスタン人の墓地。各人の顔が彫ってある

                                                          (2020年1月2日 記)
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