大分の旅5 (最終回)


2019年3月19日(火)
臼杵見物の続きを書いている。

臼杵発(14時40分)→日豊本線で→別府着(15時39分)

乗った列車が別府まで行くので、きのう行けなかった地獄めぐりをすることにした。いちばん有名な海地獄に行き、観光客のほとんどが韓国人と中国人だったことに驚いた。

海地獄は1200年前の鶴見岳噴火で出来た熱泉である。前に来た時と同じよう、にコバルトブルーの池からは白い湯けむりがあがっていた。海地獄、血の池地獄、竜巻地獄、白池地獄の4つが国指定の名勝になったのは平成21年。

 
別府の海地獄
 
中国人観光客 華やかだ

夕食は大分市内で郷土料理を食べることにした。庶民的な風体のオバチャンがやっている店だったが、私の好みからはかけ離れていた。

とり天(鶏に衣をつけて揚げたもの)、だんご汁(小麦粉の団子とネギ、ニンジン、里芋を煮込んだみそ味仕立て)、りゅうきゅう(生魚をショウガやゴマをいれた醤油につけこんだもの)、やせうま(小麦粉を練って茹で、長く伸ばした団子に砂糖や黄粉をまぶしたもの)など。           <大分東横イン泊>


3月20日(水)-4日目

最終日の今日は、大分市内を散策するつもり。空港まではバスで1時間かかるが、昼まではぶらつく時間はある。

大分もかつては城下町で、大分城とか府内城と呼ばれる城があった。でも江戸時代は誰が治めていたのだろう?九州で言えば、鹿児島の島津、熊本の細川、福岡の黒田はすぐ思い出せるが、大分のイメージは大友宗麟しかない。

府内城は、1597年に石田三成の妹婿の福原直高が12万石として築城した。その後城主はめまぐるしく変わり、17世紀中ごろには松平忠昭が城主になり幕末まで松平が治めた。わずか2万石。

今回の旅で見た城は、中津城、杵築城、臼杵城、府内城。いずれも外様大名ではないので石高が少ないこともあり、印象が薄くなってしまう。


府内城の見どころは、宗門櫓(1859年の再建)、人質櫓(1851年の再建)、帯曲輪(江戸時代に作られた人工の土手)、廊下橋(平成8年に復元)、西の丸隅櫓の白壁など。

理由はよく分からないが、日本100名城に指定されている。学者が選定にあたったというから、石垣や櫓が優れているのだろう。大分県の100名城は竹田市の岡城と府内城だけ。今回の旅で岡城と国東半島に行けなかったことが心残りだ。行ける日が来るだろうか。

城の後は街歩きだが、城下町だけあり道は直角になっているので分かりやすい。今日が青空ということもあり、大分市の印象は明るい。改築されたばかりの駅舎、赤レンガの建物、モダンな公衆トイレ。どれも街に溶け込んでいる。

 
大分駅

 
赤レンガの建物
 
モダンは公衆トイレ

駅前広場にある像は大友宗麟とフランシスコ・ザビエルだ。地面には世界地図。江戸時代の城下町よりも、戦国時代のポルトガルやスペインとかかわりがあったことを強調したいようだ。

 
駅前広場の大友宗麟像 世界地図も描かれている
 
駅の屋上から見た大友宗麟像


 駅前広場のザビエル像

街中にもポルトガル人医師の像もあった。献身的に医療に貢献したとの説明があった。鎖国などしなければ、これらスペイン人やポルトガル人は、日本の歴史にどんな影響を与えたのだろうか。おそらく良いことばかりではなかったろうが、想像すると楽しい。

 
駅前以外のザビエル像

 
ポルトガル人が西洋医術で治療した
 
西洋医術発祥記念碑

ほかに見た銅像は滝廉太郎像。そばに終焉の地の碑が建っていた。「荒城の月」の作詞者は仙台の土井晩翠、作曲は滝廉太郎である。仙台では合唱コンクールなどで「荒城の月」が歌われる。そんなこともあり、旧知の人に会えたような気がした。23歳の若さで大分の病院で亡くなったそうだ。ドイツに留学中に結核で倒れ、大分で療養していた。


 滝廉太郎終焉の地の碑

 
亡くなったのは23歳なので若々しい
 
全身像

大分発(14時35分)→羽田着(16時5分)

(2021年5月1日 記)
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