出雲と松江の旅4
 

2019年5月29日

今日は一日中松江で過ごす予定だ。きのうと打って変わって朝から青空。5月の風も爽やかだ。ガイドの待ち合わせ10時までに間があったので、県庁周辺を散歩。まず見つけたのは松平直政の像。堀尾氏、京極氏のあとに、家康の孫の直政が松江藩主になり、幕末までの233年間は松平がおさめた。親藩なので石高は18万石と少ないが、戦災にあってないこともあり、城下町の雰囲気が色濃く残っている。

直政像のすぐ側に岸清一像があった。松江藩の下級武士の出身で東大から弁護士というよくありがちな出世パターンの人だと思ったが、スポーツ界への功績が大だった故の建立だった。

その後、岸清一が大河ドラマ「イダテン」に登場し「松江の銅像の人だ」と嬉しくなった。。東京の岸記念体育会館は前を通ったこともあるが、銅像と体育館を結び付かなかった。加納治五郎の協力者で、日本体育協会の2代会長を死ぬまで続けた。松江の銅像の除幕式(1964年)には、IOCのブランデージ会長が出席したそうだ。

ガイドとの待ち合わせ近くに堀尾吉晴像があった。戦国時代の歴史が好きなので名前は知っていたが、この武将はあちこち転々としているので、ここを治めていたことは知らなかった。

信長や秀吉に仕えたのち、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、息子の忠氏が出雲と隠岐を拝領し初代藩主になった。初代の忠氏が早死にしたので吉晴が孫の後継になった。松江城を築城したのも吉晴なので、松江城の大手門近くに立つ像としてはふさわしい。


松平直政像 

岸清一像

 

堀尾吉晴像
 

10時にガイドのHさんと会った。「仙台の高校の同級生なんです」と自己紹介したら「あら、孫が東北大の4年生です。孫に誘われて仙台に行ってきたばかりです」。ということで俄然親近感がわき、ガイドとの3時間を超える交流も楽しかった。それにしてもいい孫だな。祖父母を招待するなんて。小遣い目当てかな。

松江城は3回目だが、国宝に指定されたのは2015年だから、以前は国宝でない城を見ていたことになる。建築年の慶長16(1611)年がはっきるわかる祈祷札が見つかったことで、国宝になった。

ちなみに日本の国宝の城は姫路城・松本城・松江城、犬山城、彦根城の5城。威張れたことではないが、この5城は全部訪れている。「行った、上まで登った、外観を見た」だけなので、なんの自慢にもならない。えらいのは、明治維新で取り壊しの運命にあった城を守り抜いた人たち。再建でない城を見られるのは、こういった人たちのおかげだ。

 
大手門からの撮影

 
千鳥破風が二重になっているので千鳥城とも言われる

 
天守閣の上からの眺め 宍道湖の水を引き入れた内堀も見える
 
城の裏手にある石垣
塩見縄手通りに行くときに通った


ガイドはおそらく私たちより年上だと思うが、天守閣までの石の階段や内部の木製の急な階段も難なく登る。登れなければガイドなどできないし、年号なども覚えねばならずボケ防止にもなる。年寄りにはガイドはうってうつけだと思った。

5層に見えるが、内部は地下もあるので6階。千鳥が羽を広げたような三角形の屋根、千鳥破風が二層になっているので「千鳥城」とも言われる。外壁は姫路城のように白ではなく黒色の板張り。「石落としや銃眼が目立たなくていいのです」と説明してくれた。1611年の築城だから、すべて木製。木の種類は、桐や杉や松など。石落としや銃眼なども木枠が使われている。

地下には籠城に備えて塩や米の貯蔵庫や井戸もあった。戦乱に備えた設備を整えた天守だが、築城後は大きい戦乱はなかったので、実際に使われることはなかった。最上階の展望は、上天気ゆえに遠くまで見え絶景だった。市街地や宍道湖が光っていた。    (2020年11月16日 記)

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