母が語る20世紀

 10. バラック校舎

 私の独断だが、母90年の生涯の中で、女学校時代がいちばん楽しかったのではないか。卒業後間もなく結婚したので、母にとって学校と呼べるのは「お茶の水」しかない。私のように、小中高大の同窓会が頻繁に開かれるのとは大違いだ。

 お茶の水の同窓会には「作楽会」という名がついているが、特に「作楽会仙台支部」の集いは、交際の広がりと言う意味で非常に大きかったようだ。普通ならお付き合いできないような知事夫人や頭取夫人や大会社の社長夫人と、同窓というつながりだけで行き来できたのだ。同窓会の冊子は今でも届いているし、「さくらかい」の名は、娘の私でも聞き慣れている。


 

 今回は、母の女学校生活を聞き書きする。資料がまったくないので、ふと思いついて同窓会の事務局に電話をしたところ、「百周年誌がありますよ」と言われ、茗荷谷まで行って来た。母の卒業後にお茶の水から茗荷谷に移転したので、「ちっともなつかしくないのよ」と言う地だが、これを書くうえでは収穫があった。上の集合写真は、担任の先生が袴姿なので、卒業式後の撮影と思われる。母は冬の標準服のセーラー服を着ているが、そうでない人もいる。

 母が入学したのは、関東大震災から大分経っていたが、まだ復興されず、5年間ともバラック校舎だったと言う。その校舎写真がないものかと記念誌をめくったが、見つからない。

 関東大震災後の焼け跡の面影を残す唯一の写真が上の1枚だ。背景ががらんとしている。明治38年撮影の重厚な校舎と橋(右写真)に比べると、わびし過ぎる。明治38年のこの界隈は、今よりも品格があるように思う。

 小学校から持ち上がった40人、女学校から入った40人が混じって、菊組と蘭組に分かれた。途中でクラス替えがなく、母はずっと菊組。担任も同じ水谷先生だった。水谷先生がお綺麗で素晴らしい先生だという話は、何度も聞いている。たしかに上の卒業写真を拝見するとお美しい。昭和47年の定年まで勤めていらしたそうだ。

 菊組と蘭組には訳がある。左は、前項の写真で母が身につけているベルトと同じものだが、八稜鏡の面には「秀蘭芳菊」を表す菊と蘭が彫られている。明治39年からの徽章だというが、今はどうなのだろう。校歌が同じだから徽章も同じかもしれない。

 小学校から上がって来た人はすでに英語を習っていたので、1年生の時は、分かれて授業を受けた。2年になって一緒になった時に、「小学校からの人はどんなに出来るかドキドキしたけれど、あまり差がなくて安心したのよ」。母に授業の内容を聞いても要領を得ないが、英語の授業の話だけはよくする。

 そんなに英語が心配なら、両親に教えてもらえば良さそうなものだが、1度も教えてもらったことはない。「はじめに」の項で書いたように、祖父は約15年、祖母も約6年アメリカで暮らしている。女学校1年の英語など朝飯前だったろうに、教えなかった。

 教えなかった理由は、判るような気がする。祖父は「女の子は勉強などしなくていい」と思っていたふしがある。「どんな人にも、話が合わせられるように、なんでも経験しておいた方がいい」の方針で、まず「遊べ」だった。ボクシングや6大学野球の早慶戦も見に行った。麻雀も覚えさせられた。井の頭公園や花月園にも遊びに行った。「今日は三越、明日は帝劇」の言葉があるが、デパート、音楽会、芝居にもよく行った。ただし、必ず誰かが付いて来て、一人や友人との外出は、なかなか認めてもらえなかったそうだ。

 そんな中、学校帰りに仲良し3人組で、三省堂で本や文具を買うのは、冒険みたいで楽しかった。三省堂は、今もそこにあるが、お茶の水駅を挟んで反対側にあった。そこで、盛岡の「高松の池」で一緒に滑った明治大学のスケート部員にも会ったことがある。明治大学は、三省堂に近い。

 風邪を引きやすかった母を、祖父はスケートで鍛えようと考えた。なぜ遠い岩手まで行ったのかわからないが、祖父と母は1週間ほど盛岡で冬を過ごしたらしい。「宿が二重窓だったので、珍しかった」と話すからには、確かだろう。入試が終わった後に、父にスケートを伝授してもらった事はすでに書いた。さらに磨きをかけ、その後は風邪を引かなくなった。

 祖父が贔屓にしていた日比谷の「松本楼」だけは、友達と行っても怒られなかった。「お金は払わなくてよかったのよ。どうしたのかしらね」と、暢気なことを言っている。たまたま今年の夏に、知人から「松本楼」のポークカレーをいただいた。(左写真)。「なつかしいわ。同じ味よ」と喜んでいた。100周年や、SINCE1903の字も見える。母が生まれる10年も前に創業した老舗だ。

 仲良し3人組のひとりMさんは有名な歌人に嫁ぎ、結婚後も行き来していたが、糖尿病で早く亡くなった。もうひとりKさんはカトリックの道に入った。Kさんは一時期行方がわからなかったが、再会後はずっと交際していた。仙台の家に泊まったことがあるので、私も知っている。

 3人組以外にも親しい人はたくさんいた。クラス替えをしないから、誰もが友達になる。後に、大使夫人、頭取夫人、社長夫人、作家夫人、大学の総長夫人になった同級生もいる。差し支えがあると困るので、実名は省くが、名前を言えば「ああ」と思う方ばかりである。「ご主人が出世した人は、クラス会に来ても羽振りがいいのよ」と母は言うが、そりゃそうだろう。貧乏学者に嫁いだ母とは雲泥の差にちがいない。高級官僚に嫁いだのに、お気の毒な方もいる。一人娘が亡くなって孫夫婦と暮らしていたが、老人ホームに入った。母のお供で会いに行ったが、娘を亡くした悲しみが伝わってきてつらかった。

 母よりずっとしっかりしておられる同級生のYさんに、確かめたいことがあり電話をした。「安積房子の娘ですが・・」と名乗ったら、「あら、お母さま亡くなったの?」と言われてしまった。たまたま母が3週間ほど兄の家に行っていた留守の間に、母を差し置いての電話だから、誤解されても仕方がない。Yさんによれば、「菊組の中で、元気に行き来できるのは4人ぐらい。○○さんも××さんも老人ホームに入ったわよ」。○○さんも××さんも羽振りの良いグループの方だ。高級ホームに入っていらっしゃるのだろう。

 私がYさんに確かめたかったのは、同級生の安否だけだったが、話好きのYさんのおしゃべりは延々と続いた。「私とお母さんは卓球部でね。一緒にダブルスも組んで仲良くしていたのよ。仙台も案内してもらったわ。そうそう、お母さんは、そりゃハイカラだったのよ。同じセーラー服でもどこか着こなしが違うと、みんなで言ってたものよ」。

 卓球部だったことは知っている。25年も前のことだが、安積ファミリー総勢20人で、那須に泊まったことがある。地下の娯楽室でピンポンをした。「おばあちゃんのスマッシュはスゴイ!」と孫達は驚いていた。しかし、母がハイカラだと言われていたことは、初耳。「色も黒いしブスだった」と何度も話しているし、それが嘘でないことは、娘の私が百も承知だ。ハイカラとはねえ。不思議なものだ。

 母は、世の動きなどまったく関心がなかったと言うが、「20世紀」と謳っているからには、入学した昭和2年4月から卒業の昭和7年3月までの世相がどんなものだったのか知りたい。「重要紙面の75年」(朝日新聞社昭和29年発行)に取り上げられた紙面すべてのトップ記事を抜き出してみた。漢字は現在使われている字に直したが原文のまま。

 昭和2年 4月  「財界安定のために 支払い猶予令公布に決す」
    3年 2月  「明るき日本への首途 けふ普選最初の投票日」
    3年 4月  「日本共産党の大検挙 全国にわたって一千余名」
    3年 6月  「南軍の便衣隊 張作霖の列車を爆破」
    3年 8月  「外交調査会で 首相、浜口氏と会見」
    3年11月  「けふ天地に瑞祥満ち 畏くも即位礼の二大儀」
    4年 1月  「帝都を脅かした 説教強盗捕はる 強盗百余件に及ぶ」
    4年 8月  「大歓呼に迎へられて Z伯号帝都の空に入る」
    5年 1月  「けふ金解禁 禁輸の扉開かれ 金本位制に復帰す」
    5年 4月  「軍縮条約調印終わり 世界平和の礎石成る」
    5年11月  「東京駅で凶漢に 浜口首相狙撃さる」
    6年 9月  「満州で日支兵衝突激戦」
    7年 1月  「上海でついに火蓋切らる! 昨夜電光石火 我が陸戦隊出動す」


 興味のある方は、ゆっくり眺めていただきい。現代史がお好きな方は、「ああ、あの事か」と思われるだろう。このように、暗い戦争の時代がひたひたと迫っていたが、箸が転げても可笑しい年頃に、何も感じなかったとしても無理もない。(2004年8月27日 記)

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