母が語る20世紀

  11. 岡田三郎助 

 昭和7年に女学校を卒業した母は、クラスの半数が専攻科に進むなか、進学が許されなかった。経済的理由や成績云々ではなく、父親が「女の子は学問などしなくてよい」と思っていたからだ。母は女学校の延長である専攻科に行きたかったようだが、反論する意思もなかった。

 「専攻科に行っておけばよかった」とつくづく思ったのは、戦後、仙台の郊外に疎開した折りに「お茶の水を出ているなら、教員をしてくれ」と頼まれた時のことだ。男性が足りない時代ゆえの依頼だが、女学校卒では、教員は勤まらない。極貧の頃だったので、「少しでもお金が欲しかったのに」と母は悔やむ。

 結婚するまでの1年半は、習い事三昧だったらしい。右写真の裏には昭和7年とある。卒業した年の夏、いわゆる花嫁修業をしていた頃の1枚。「アメリカの知人が送ってくれたピンクのワンピースよ。コルセットに紐がついていて、ギュッギュッと締めたのよ」。
 「風と共に去りぬ」の映画には、乳母が、スカーレットのコルセットを締めるシーンが出てくる。「風と共に去りぬ」の時代から70年も後の1932年でも、同じようなコルセットを使っていたことに驚く。

 昭和7年と言えば、5月15日に、犬養首相が暗殺された、5・15事件の年だ。
 「この時のことを覚えてない?」「そういえば、食料品がなくなるかもしれないからと、買い溜めしたわ」。でもそんなことはすぐ忘れてしまい、呑気に過ごしていたようだ。

 午前中は、渋谷区伊達町の岡田三郎助先生の私邸アトリエに通った。
 画家・岩崎ちひろさんの年表を見ると「14歳の時に岡田三郎助氏に師事」とある。母とちひろさんは4歳違いだから、14歳のちひろと、18歳の母は接点があるはずなのに、「会った覚えはない」という。よくよく聞いてみると、母が通ったのは私邸の方で、別の場所に研究所があったらしい。「画学生は不良が多いから」の母親のひとことで、私邸通いになったのだ。お遊び目的のお弟子さんは、私邸で習ったのではないか。

 岡田三郎助をご存知ない方も多いと思うが、「1869年佐賀生まれ。1939年に亡くなった。1937年に第1回の文化勲章受章。黒田清輝の後継者。東京美術学校(芸大)の教授になり後進の指導にあたった。絵の主題の中心は裸婦と女性像・・」と百科事典にある。

 左は、「あやめの衣-1927年作-」。代表作が、裸婦と女性像ということが素直に肯ける作品だ。背中がなまめかしい。今年の6月に行った箱根の「ポーラ美術館」に展示してあった。そこで買った絵はがきだが、母に見せると「三郎助先生の絵ね」と、すぐわかった。

 昭和12年4月27日の新聞(下)に、初の文化勲章受賞者9名が載っている。今は文化の日に勲章が授与されるが、1回目は4月に伝達されている。受賞者の中には正三位勲一等の長岡半太郎氏もいれば、正六位勲六等の佐佐木信綱氏もいる。同じ文化勲章にも差があったようだ。



 ちなみに、幸田成行は幸田露伴、竹内恒吉は竹内栖鳳、横山秀麿は横山大観である。こうしてみると、岡田三郎助の知名度がいちばん低いように思うが、横山大観より上の勲章をもらっている。昭和12年当時の評価がそうだったのだろう。

 母が三郎助先生(母はいつもこう呼んでいる)のアトリエに通いはじめたのは、受賞の5年前ということになる。私が「どうして、そんな大画伯が、普通の女の子を弟子に受け入れてくれたのかしら。よっぽどお金を払ったんじゃないの」と意地悪く聞いても、「どうしてかしらね」と母の答えも心許ない。良子皇后が女学校に行啓なさったときに、椿の絵をさしあげた話は、良子皇后さまの項で触れた。娘に絵の才能があると勘違いした両親が、紹介者を通して頼んだらしい。

 最初の1年間は、ひたすら石膏のデッサン。ローマ皇帝像やビーナスなど、いくつも石膏があったので、題材がなくなることはなかった。1年経つと油絵に進む。「早く油絵室に行きたいわねえ」と、友人と話しながら、ひたすらデッサンに明け暮れていた。その友人が、後に満州皇帝の弟・愛心覚羅溥傑氏に嫁いだ嵯峨浩(ひろ)さんである。彼女のことは次の項で取り上げる。

 三郎助先生は、パリに留学していた画家だから、モダンな格好かと思いきや、いつも和服の着流しだったという。ときどきアトリエに姿を見せる先生は、細かい注意はなさらず、黙って線を直してくださるだけだった。

 1年後に移った油絵室では、モデルのヌードばかり描いていた。「モデルさんはね、先生がいらっしゃると、汗をかくのよ。私たちだけの時は、平気なんだけど。先生を前にすると緊張するのね」。
 母のアトリエ通いは、結婚後もしばらく続いた。しかし、私は母が絵筆を握るのを見たことがない。子ども4人が独立した後は余裕があったはずだが、描いていない。たいして好きではなかったのだろう。それに、当時描いた膨大な絵は、みな焼けてしまった。1枚だけ残っていた婦人像も、実家を壊したときに、ゴミとして捨てられてしまった。

 右は、2年前に、妹の家の近く・桂台ケアプラザに行った時に描いたスケッチ。葉書大の画用紙だが、ごく短時間で仕上げたという。妹も私も母が描く姿を見たことがなかったので、親ながら感心してしまった。デッサン室に1年いただけのことはある。

 これを機会に描くように奨めたが、その後は何もしていない。
(2004年9月8日 記)

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