母が語る20世紀

 17. 曾祖父・加藤和平

 母の幼児期から結婚の頃までの聞き書きをしてきたが、今回は後戻り。私の曾祖父・加藤和平(右)を取り上げたい。20世紀というより、19世紀、江戸時代までさかのぼる。

 母は、自分の祖父を「おじいさん」ではなく、「和平さん」と呼ぶ。私もそれに倣って、会ったこともない曾祖父を和平さんと呼んでいる。和平さんは、加賀100万石・前田藩の和算の御用学者だったので、身内では有名だ。御用学者がどんな仕事をしていたのかわからないが、藩士の子ども達に和算を教えたり、藩の財政を管理していたのだろうか。

 加藤家勢揃いの写真(下)中央に座っているのが、和平さん。(昭和7年撮影)。最晩年こそ、東京で長男と一緒に暮らしていたが、その前は金沢、北海道を数カ所、名古屋などを転々としている。

 和平さんの後にいるのが父だが、この時はまだ結婚していないので、遊びに来た時に撮ったのだろう。母と伯母があらぬ方を向いていて妙な写真だが、ひとり和平さんだけは凛としている。曾祖父は、この写真を撮った1年半後の昭和8年12月に、90歳で亡くなった。昭和初期にしては、長寿である。

 和平さんが亡くなった時、父は赤門スケート部の一員として満州に遠征中だった。母は「戻るに及ばない」と電報を打ったという。2ヶ月前に結婚した新妻を置いてスケートとは、呑気なものだ。

 母は少なくとも数年間は一緒に暮らしているのに、和平さんについて覚えていることは断片的で、全体像が見えない。

 「ひげが邪魔で、ご飯を食べる時に苦労していたのよ。それでも剃ろうとはしなかった」。

 「姉は、女学校のときに、数学を教えてもらっていたわ」。

 「六郎さんたちと、むずかしそうな数学の話をしていたことがある。かなり耄碌していたのに」。

 「毎年、ご先祖様の墓参りに、金沢まで行ったのよ。野田山という所に墓があってね。お茶の水の同級生に、前田藩の家老の孫がいたの。彼女の先祖の墓は、野田山の上の方にあったけれど、加藤家のは下の方にあった。学者は身分が低いから、墓地も下だったのよ」。

 「東京の前田家へ、一家揃って新年の挨拶に行くのが恒例だった」とも言っている。前田家ともなれば、侯爵だろうか。華族制度があった時代の、華やかさを感じる。

 昭和8年に90歳ということは、1843年(天保14年)に生まれたことになる。明治維新時は25歳。御用学者がこんなに若いのかと不思議だが、10代で殿様になる例もあるから、今の尺度では測れない。曾祖父が「天保の改革」の天保生まれだと知り、がぜん江戸時代が、身近になってきた。

 「身分は低いというが、禄高はどの程度だったのか。和平さんの親は何をしていたのか。学者が世襲などあり得るのか」、疑問だけがどんどん膨らんでくる。ひとりで考えていても先に進まないので、横浜歴博の近世専門の学芸員に相談してみた。「前田藩の家臣団の記録があるはずだ。まず問い合わせたらどうか」と、ヒントを与えてくれた。

 早速、金沢市立図書館に手紙を出してみた。「お問い合わせの加藤和平につきましては、各藩士の経歴や系譜の記された『由緒井一類附帳』を調べましたところ、該当する史料はありませんでした。同史料は、全藩の3分の2程度、当館が所蔵しておりますが、残り3分の1の所在不明分に含まれる家々については、現在のところ調査の方法がございません」という、少々残念な回答があった。

 でも加藤和平の名が載っている本を、2冊検索してくれた。数ある蔵書の中から探せたのは、コンピュータのおかげだ。その部分をコピーして送ってもらった。

 曾祖父について記載した本は『石川百年史』(昭和47年発行)と『郷土数学』(昭和12年発行)の2冊である。

 『石川百年史』には、高い北海道への関心という題の中に「・・明治11年、林顕三は、・・加藤和平らの同士と開進社を組織し、後志、渡島両国の開墾に従事したが、これは失敗した・・」とある。

 北海道に渡って開墾したことを裏付ける写真(左)がある。和平さんは、カマを持っている。

 写真の裏には、北海道乙部村。和平、依、理の記載がある。奥さんの名は田鶴さんだから、依さん・理さんは妹たちかもしれない。

 写真の裏に記載したのは、伯母である。この伯母が几帳面に裏に書いておいてくれたおかげで、「母が語る20世紀」は、非常に助けられた。他界する前に、聞いておけばよかったと思うことが山とある。

  いずれにしても、開墾事業は失敗したと「百年史」にあるから、典型的な「士族の商法」だったに違いない。開墾失敗後に何をしていたか。従兄が、祖父から聞いたという話をしてくれた。「陸軍の地図作り、函館師範の教師、江差で巡査。どれが先か後かはっきりしないけれど、関連がなさそうな仕事に就いているね。飽きっぽかったのか、でかいことをやろうと大志を持っていたのか」。

 こんな風に、和平さんの一生は、波瀾万丈だ。明治維新に遭遇した多くの人がそうだったのかもしれないが、もう少し利口な生き方が出来たのではないかと、従兄(加藤家勢揃いの写真の左端)と話すことがある。

 あえて北海道に渡らずとも、和算学者の才能を生かして、金沢で暮らすことは可能だったはずだ。下のコピーは『郷土数学』の加藤和平の項に載っている最初の部分であるが、明治初期に和算から洋算に切り替えて、洋算の教科書『新撰数学』を著すほど、数学教育に情熱を燃やしていた。イギリスの教科書だったので、貨幣も単位も日本人には馴染みがない。それを日本人用に編纂し直した・・と後半に書いてある。「おとなしく教師を続けていれば、師範学校の校長ぐらいにはなったのではないか」と、従兄も言う。


 
 安定した職業を棄て、北海道に渡った理由はわからない。山っ気の多い人だったのかもしれない。教師より面白そうな生活が、新天地で待っている。そう感じたとしても無理もない。開墾は失敗したが、その後の北海道での生活は、極貧ではなかった。「江差の町長だった親戚がいた」と、母は話している。当時の江差は、ニシン漁などで繁栄していた町だった。「和平さんが生きている頃は、北海道の親戚と行き来があったのよ。東京の学校に通っている親戚もいた。私も小さいときに、函館の五稜郭を見物した」とも言っている。

 適うことなら、和平さんに会って聞いてみたい。「徳川の天下が終わった時、加賀藩がなくなった時、ちょんまげを切った時、どういう気持ちでしたか?金沢を脱出した理由は?北海道での生活はどんなでした?開墾が失敗したのはなぜ?仕事を、どんどん変えたのは、面白くなかったからですか?それとも解雇されたの?」。会って話せば、裏面史がどんどん出てくるような気がする。「面白い人生だったよ」と言うかも知れない。なにしろ、和平さんは、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と、11もの激動の時代を、くぐり抜けてきた。

 従兄が調べてくれたのだが、国会図書館には、和平さんが寄贈した和算本が20冊近くある。右写真は、和算図書目録の表紙で、著者名と共に、寄贈者の名も記してある。

 内容はおろか、読み方すらわからないが、和平さんが寄贈した数冊の書名をあげてみる。「法算 諸約術(文化2年)」「招差三要(明和元年)」「諸角二距斜解術(嘉永元年)」「翦管術解」「雙釣招差」「算術要法五箇條法則」。

 ぴったりの展覧会「和算の贈り物」が、ちょうどこの時期に東京文京区役所で開かれているので、21日に足を運んでみた。

 和算の原本や、和算を使っての解法など、地味ながら興味のある展示だった。江戸時代の和算は高度であり、円の面積や立木の高さはもとより、複雑な図形なども計算できたようだ。

 数年前まで、私は寺子屋塾を開いていた。いちばん教えがいがあって楽しかったのは、数学だった。和平さんのDNAを、少しは貰っているような気がする。

 江戸時代の識字率は世界一だったと言われるが、和算を学んでいる人も少なくはなかった。藩校ばかりか、寺子屋が大きな役目を果たしたと思われる。江戸時代の庶民は、私達が思う以上に、高度な知識を身につけていたと言える。

 この基礎学力があったればこそ、西洋の学問を受け入れる素地もあり、ひいては諸外国の植民地にならずにすんだのかもしれない。

 激動期ゆえか、天性のなせるわざか、和平さんは破天荒な一生を過ごした。「この親にしてこの子あり」。祖父・加藤英重も同じように、山っ気の多い人だったようだ。次の項までお待ちいただきたい。(2004年12月22日 記)
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