母が語る20世紀

 18. 祖父・加藤英重

 祖父・加藤英重が亡くなったのは、1956年(昭31)6月。79歳だった。英重の父親が90歳で亡くなったのに比べ早死にだが、当時の寿命から言えば、長命だったようだ。

 以前、実家の荷物を整理していたとき、祖父が書いた「後始末」のコピー(右はその一部)を見つけた。後始末と言っても、財産があるわけじゃなし、単に葬式のやり方を書いているにすぎないが、祖父の真骨頂ではないかと思えるので、下に書き写す。

 一、戒名不要
    読経、通夜、精進料理、初七日の仏事不要、家族のみにて葬送のこと
 一、南無大事 大慈大悲の観世音菩薩の許へ我は行きたし
 一、影灯籠 回りはじめて七十余年 油が切れてさらばおさらば

 今でこそ「葬式はしなくていい。戒名もいらない」と遺言する人が増えているが、50年前にしては珍しい。戒名不要、でも観世音菩薩の許へ行きたいというのは、図々しくて虫が良すぎやしないか。これを読んだ時に、思わず声をあげて笑ってしまった。

 加藤家の墓は、東京の多磨墓地にあるが、たしかに戒名はついていない。葬式も、言われたように、簡素にやったそうだ。

 もともと祖父は、臥風荘(がふうそう・伊豆の別荘・晩年は、ここに住むことが多かった)近くを流れている白田川の河原で、野辺送りをしてもらいたかったらしい。「薪を積み上げて、そこで一晩中燃やし続けて欲しいんだ」と、私の従兄(祖父からみれば孫)に話していたという。「跡にスミレの花が咲くだろう」とも。

 実際には、こんな野辺送りはしていない。上の祖父母の写真は、戦後間もない頃に、臥風荘で撮ったもの。祖父が70歳の頃ではないかと思う。

 祖父は、曾祖父同様、いくつもの仕事に就いている。従兄も「そういう点では、ほんとにあの親子は似ているよ。まさに、この親にしてこの子ありだよ」と言っている。

 英重は、明治10年に金沢で生まれたが、父親が開拓を夢見たので、少年期は北海道で過ごしている。金沢の旧制高校・四高に進んだのは、祖先の地で学びたかったのかもしれない。前田家から奨学金が出たので、もとご城下にある四高を選んだのではないかと、母は言う。四高から東京帝國大學の法学部に進学した。そこまでは、小さい頃から「神童」ともてはやされた通りの順調な道のりだったのだが、「神童も、二十歳過ぎればただの人」。大学卒業を待たずに中退してしまった。明治30年頃の学士様といえば、それだけで出世が出来た時代だけに、「加藤はバカだなあ」と、同級生の語りぐさになったと聞いている。

 祖父と接する時間が長かった従兄の話では、田舎から出てきた英重にとって、東京は刺激が多過ぎて、大学での勉強などつまらなく思えたらしい。そこで、一旗あげようと、上海に行くばかりになっていた時に、前田家の人が、カリフォルニアでの事業を手伝って欲しいと言い出した。

 右は、明治32年頃に、サンフランシスコの「KOKUSANSHA」という店の前で撮った写真で、左端が祖父。「KOKUSANSHA」が、何を扱っていたのか、この写真では判断できない。

 その後、サクラメント(カリフォルニア州の州都)に場を移し、貿易業を自分でやっていた。渡米後10年以上過ぎた頃に、日本から妻を迎えた。青山学院に通っていた祖母が、学校をやめて、ひとりアメリカ行きの船に乗ったという。やはり旧金沢藩士で、海軍大佐になった人の娘である。遠い親戚だったというが、会ったこともない異国で暮らしている男に、よく嫁ぐ気になったものだ。

































 上4枚は、みなサクラメント時代のもの。左上が結婚式の写真。他の写真は、幼い頃の伯母が写っているから、明治42年〜44年に写したものだろう。日本でも、アーリーアメリカン時代の建築が流行ったことがあるが、そんな雰囲気の家だ。広い庭を持つ豪邸で、贅沢な生活をしていた様子が窺える。事業は順調だったらしい。

 私は4枚目の写真が、好きだ。仲間が集まって、くつろいだ様子がなんとも言えない。右端にいるのが、伯母のような気がする。乳児を抱いている婦人と、その下に寝ころんでいる男性は、アメリカ人。取引先の人か、仕事仲間か、親しい友人か。

 事業はうまくいっていたのに、なぜ日本に帰ってきたのか。母は大正3年(1914年)に、横浜で生まれているから、少なくとも、その前にアメリカを引き揚げたことになる。従兄の話では、カリフォルニアに住む日本人に、風当たりが強くなり、機を見るに敏なる祖父が、引き上げを決心したという。

 カリフォルニア州で排日法が通過したのは1920年。その7年ぐらい前に、祖父は排日ムードを察して、早々と帰国したのだろう。

 祖父は約16年、祖母も約6年、アメリカで生活していたので、帰国後も横浜で貿易の仕事をしていた。幼かった母は、いつも「アメリカの匂いのする倉庫」で遊んでいた。等身大の眠り人形、リグレーのチューインガム、キスミーチョコレート、クエーカーオーツなど、ハイカラな玩具や食べ物に囲まれていたそうだ。「アメリカの匂いは、船底の匂いじゃないかしらね」と、母は話している。

 その後、貿易の仕事は遠縁の者に譲った。排日法案が出るに及んで、いよいよ嫌気がさしたようだ。日米が戦う前に、貿易から足を洗ったのは正解だったかもしれない。開戦時にカリフォルニアに住んでいた多くの日本人が、砂漠の収容所に送られている。

 アメリカで生活していたことを偲ばせる話は、母からいくつも聞いている。「クリスマスには、ターキーを焼いた。愛宕山の家には、シャンデリアやソファのある洋間があった。小さい頃からパンツをはかされていた。ホットケーキをハッケーキと発音していた。『キーをかけたら、必ずトライしなさい』と言われていた・・・」などなど。

 貿易業の次に手がけたのは株屋だった。当時は、まとまった資金さえあれが、個人でもやれたらしい。この仕事は祖母がとても嫌がったという。「株屋の娘では、お嫁にもやれない」と。

 愛妻の苦言に耳を傾けたのかどうか、次に手を染めたのは出版業だ。仲のいい友とふたりで、日比谷で出版社を興した。全集も出して順調だったし、祖母もこの事業を気に入って喜んでいたという。ところが、相棒のN氏が政治をやりたくて、議員になると言い出したので、祖父も出版社をやめてしまった。N氏はのちに都議会議長まで上り詰め、従兄が就職する時など、世話になったという。

 次は三越のサラリーマンである。最初は、丁稚の小僧みたいに、いろいろな職場を回らされたが、それまで経験を積んでいるので、それなりに出世した。仕入部長の時は、業者からの贈り物がたくさん届いたのに、全部送り返してしまった。祖母と書生が送り返している光景を、母は覚えている。そういう意味では潔い人だったらしい。母が物心ついた時には、なにもかも三越から買っていた。それが癖になって、仙台に越してからも、炭ですら、三越から届けて貰ったという。

 三越を退職した後も、おとなしくしていない。七尾市(郷里の金沢に近い)で、セメント会社を興すべく、株式を募集した。会社を興すほどの現金は、持っていたらしい。しかし世は、国家総動員法が出るなど、戦時色が濃くなり、個人でのセメント会社創設は、無理な話になった。

 景気のいい話は、ここまでで、戦争を境に、没落してしまった。没落したとはいえ、伊豆と蓼科の別荘は手放していないし、阿佐ヶ谷に広い家もあった。しかし、急激なインフレで、それまでの貯金は、ただ同然になってしまった。大きな変換期の時に、飛躍する人も多いが、それには祖父は歳をとりすぎていたのかもしれない。現金がなくなってはどうしようもない。私たち一家6人が空襲で焼け出され、無一文、無一物になっても、祖父からの援助はなかった。いちばん困っている時に、助けてもらえなかったのである。

 愛宕山の家には、金沢や北海道の若者・親戚が居候していたことは前に書いたが、世話好きの性格は、終生変わらなかったとみえる。編み物で身を立てている未亡人に同情して、製品を三越に置いてもらうよう口を利いたり、別荘の大家の息子の進学相談にも乗ったりしている。

 祖父は肺ガンだったが、病院ではなく、自宅で亡くなった。従兄は、その時のことをよく覚えている。危篤状態を脱した翌朝のこと。目覚めた時に、「なんだ、まだ生きているのか。医者に、毒を盛ってくれと頼んでおいたのに、約束を破りやがったな」と、はっきした口調で話したという。その数時間後に、眠るように亡くなった。

 たとえ、東大をそのまま卒業して高級官僚になったとしても、祖父にとって、さほど面白い人生だったとも思えない。曾祖父の和平は北海道に、祖父の英重は、アメリカに新天地を求めた。両者とも成功はしなかったが、ワクワクするような一生だったのではないか。学歴に頼らずに、自分の力で、自分の道を切り開いている。

 祖父には娘が2人、孫が6人いる。孫はみな健在だが、祖父や曾祖父のような波瀾万丈の生き方をしていない。男の孫は3人。伯母の息子ふたりは、大学を出て普通の会社に勤め、定年まで勤め上げた。もう1人、つまり母の息子(私の兄)は、相も変わらず学究生活を送っている。ご先祖さまに比べると、よく言えば真面目、悪く言えば平凡過ぎる人生ではある。(2005年1月9日 記)

 ロサンゼルス在住の作家・渡辺正清氏は、『ミッションロード』で1991年に、潮ノンフィクション賞を受賞。2001年に集英社から出版した『ヤマト魂』では、1941年12月7日の真珠湾攻撃から、1952年4月17日の「排日2法」が廃案になるまでの日系人の苦悩と喜びを、豊富な資料と多数の証言者の話をもとに綴っている。

 大学の先輩でもある渡辺さんとは、1年に1度の里帰りの折りに、サークルの会合で会っている。次は、彼が寄せてくれた感想の一部。祖父が帰国したと思われる1913年は、日本人の土地所有が禁止された年であることがわかった。謎が解けたような気分である。(2005年1月26日 記)。

 こちらに生きた日本人について書いたりしているため、「父が亡くなったので、彼のことを書いて欲しい」と遺族から資料をもちこまれることが、よくあります。
 何人かは書きました。日本語が読めないので、英文にして欲しいという要望もつよく、時間をとられてしまいます。
 先人たちのおかげで、こんにち、われわれの社会的地位が底上げされたことを考えると、恩返しにもなるのではという気持ちで報いています。故人の遺言で私に頼めというのもあり、なかには葬儀の司式を名指した方も数人いました。

 ご祖父の加藤英重さんと似た経歴の方もいました。学歴が何であれ、浮かぶ人と沈んでいく人が同居しているのが、移民地の社会であった(ある)ようです。
 サクラメントの公園(と思われる)での寛いだ写真は、確かに、いいですね。写真の左端に寝転んでいる人は日本人ではないように見えることから、赤ちゃんを抱いている婦人とは夫婦では。親しい友人、あるいは仕事の仲間とも考えられます。”乳母”の服装としては、立派すぎます。

 英重さんについて、以前にお聞きしたとき以来、サンフランシスコとサクラメントの移民関係の資料にあたってみていますが、いまのところ、彼の名や事業についての記述はみつかっていません。
 もちろん想像ですが、いわゆる日本人の移民社会との接点が少なかったことが、記録のない理由かもしれません。
 彼の性格を推察すると、移民社会に頼る人ではないようです。いずれにしても、両地ともロサンゼルスから700キロほど離れているため、私の守備範囲を超えていることも支障になっています。
 こころには留めておきます。

 いい時に帰国されたと思います。拙著にも書いていますが、20世紀に入ると、日本人排斥がつよくなり、百年前の日露戦争で小国・日本が勝ったことで、退役軍人が百万という単位でカリフォルニアに渡ってくる、という怖れが、排日の度合いを強めました。
 日本人に土地所有の禁止(1913年)、つづいて借地の禁止(1920年)、そして労働移民の全面的禁止(1924年)と法律のうえでの排斥がおこなわれました。

 久しく移民史から離れていたので、上記のことは新鮮な気分で綴りました。


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