母が語る20世紀

 19. みちのく仙台

 昭和8年に結婚した母は、家族4人で、東京・東中野で暮らしていたが、昭和12年に仙台に転居することになった。結婚直後に住んだ代官山の同潤会アパートが狭くなり、東中野の貸家に住んでいた頃のことだ。

 昭和12年は、どんな年だったのだろう。朝日新聞の重要紙面縮刷版には、右のような記事が載っている。(昭和12年12月11日夕刊)。その年の7月にはじまった日中戦争は、南京が陥落するまでになっていた。トップの日の丸が誇らしげだ。

 8年後に悲惨な結末を迎えるなど、当時、誰が予想できたろうか。私たち一家が、仙台空襲に見舞われる暗い時代の幕開きでもあった。

 「物理化学の新しい講座を作るから教授候補を推薦して欲しい」と、東北大学から、父の上司である片山先生に依頼があった。

 「君は旧制二高出身だから、どうかね」と打診された。父は東大化学教室の助手の身分だったから、贅沢を言える立場にはない。喜んで、東北大学に赴任することになった。父は昭和12年の7月に、母と兄姉は9月に仙台に移った。

 1週間前に仙台に行った時に、左の写真を撮ってきた。東北大学のキャンパスは青葉山に移っているが、この建物は、父が赴任した当時のままである。父が長年使っていた部屋も残っている。「片平キャンパスの建物を保存する会」のおかげだ。

 父が眠る仙台葛が岡の墓地には、めったに行かないが、片平キャンパスにはよく足を運ぶ。父に会えるような気がするからだ。

 今でこそ、東京・仙台間は2時間ほどだが、当時は10時間以上かかったのではあるまいか。「白河以北一山百文」と言われ、「みちのく」のことばが相応しい奥地だった。

 銀座まで歩いて行ける家で子供時代を過ごした母が、喜んで仙台に行ったとは思えないが、仙台にはその後60年以上も住み続け、まさに「住めば都」になった。

 当時の仙台は、どんな町だったのだろう。空襲で一切を失ったので、写真も地図もない。ふと思いついて、仙台市民図書館に、「昭和12年から戦前までの写真や資料がなくて困っているので、捜して欲しい」と、メールを出してみた。

 すぐに、郷土史担当の嘉藤さんからご親切な返信があり、関係ありそうな写真や地図のコピーを10数枚送って下さった。

 左の2枚は「仙台なつかし写真展」の表題がついている。上は、母が降り立ったであろう仙台駅。人力車も並んでいるが、8台もの乗用車が、客待ち状態だ。

 下の写真の説明に「ネオン美しき夜の盛り場東一番丁大通り」とある。キリンビール、ヱビスビールのネオンが目立ち、灯りがキラキラしている。この2枚を見ると、思ったより大都会だったような気もする。

 東一番町(丁が町に変わった)は、今でも仙台の繁華街である。私が仙台にいたころは、「銀ブラ」ならぬ「番ブラ」と言う言葉が使われていた。一番丁に行くのは、晴れがましいことだった。

 華やかさ、仙台らしさと言う意味では、戦前の方が、上だったかもしれない。最近の一番町は、江戸時代から続く老舗が消え、全国どこにでもあるブランド店ばかりが幅をきかせ、ワクワクするような面白みに欠ける。


 「仙台が田舎で嫌だった」という話は、母から聞いたことがない。そんなことより、困ったのは、ズウズウ弁がわからなかったことである。それに関した逸話はいくつも聞いている。

 御用聞きの取り次ぎをしたねえやが「奥様、ナスを売りにきました」「ナスは丸いの長いの?」「丸いナスです」「ああそう、丸いナスなら欲しいわ」。当時の仙台では、長ナスが多かったので、使い慣れた丸ナスを、欲しかったのだろう。ところが、ナスは茄子ではなく梨だった。仙台弁は、ナシがなまってナスに聞こえる。

 ねえやは、大学が気を利かして雇ってくれたのだが、費用まで出してくれるわけではないので、間もなく帰ってもらったのだが、ねえやも「長い梨などないのに・・」と不思議に思ったことだろう。

 ねえやがいなくなった後も、御用聞きの言葉には苦労した。父が在宅の時は、父が通訳していた。通訳が大げさではないほど、当時の仙台は、ズウズウ弁を話す人が多かったらしい。

 旧制高校時代を仙台で過ごした母の義兄(姉の夫)が、「市電の車掌がさあ、「『落ちる人が死んでから、乗ってください』って言うんだぜ」と、母に話したそうである。日頃からホラをふくのが好きな義兄の話だから、本気にしていなかった。

 ところが、はじめて市電に乗ったときに、「落ちる人が死んでから、乗って下さい」と車掌がアナウンスした。話は本当だった・・と、電車を降りてからも、笑いが止まらなくて困ったという。しばらく路上に座り込んで、笑い転げていた。幼子だった兄や姉は、母親の突然の狂態ぶりにとまどったかもしれない。もちろん「降りる人が済んでから、乗って下さい」ということだ。

 母が仙台に来た直後の写真が残っている(右)。銅像めぐりの「伊達政宗」の項にも載せたお宝写真だ。昭和12年としか書いてないが、服装から想像するに、秋だろう。祖父が来仙したときに、定番の観光地・青葉城趾を案内したと思われる。兄が3歳、姉が2歳で、可愛い盛り。

 2人の手がかからなくなったので、私が生まれるまでは、茶道の稽古、子ども達を連れての散歩、本を読むなど優雅に過ごしていたらしい。父は、自分のことは自分でする男性なので、主人に振り回される生活ではなかったと思う。

 左写真は、市民図書館がコピーしてくれた昭和11年の仙台市地図の一部。

 私は、堤通の貸家時代に、大学病院で生まれた。電車の路線図の「勾当台通」から「大学病院前」までは、わずか2停留所だ。

 堤通のどの辺りだったのか、母は覚えていないが、「家の前に車屋があった」と語っている。車屋は人力車乗り場みたいな所。私が生まれた頃は、タクシーより人力車が多かったと思われる。

 堤通の家が、台風の時に床まで水があがってきたので、北四番町の貸家に移った。北四番町の家の大家は、町内会長をしていたOさん。父の茶道の師匠でもあった。

 茶道を習ったのが先か、家を借りたのが先か知らないが、死ぬ直前までお茶を嗜んでいた父が、お茶に関わりだしたのは、この頃である。Oさん一家のことは、次の項で記すつもりだ。

 左の写真に、2歳の私が登場する。兄は2年生。姉は1年生。

 兄は「入学した時から卒業まで国民学校だった。」と話している。国民学校は、昭和16年から21年までの、いわば戦争中の小学校の名称である。

 当時の正式名称は知らないが、後の東北大学教育学部附属小学校に入った。

 入学試験があったので、母はずいぶん気をもんだ。兄は「回れ右」の動作も出来なかった。右と左の区別が分からなかったらしい。当日の朝も練習したのに、試験の時は間違った。そんな彼が、いまでも大学で教えている。回れ右もまともにできないような人のほうが、大学教授としては向いて いるのかも知れない。

  母が主題だから、どうでもいいのだが、私に関するエピソードは、何も聞いていない。私が小さい頃は、兄や姉が学齢期。父母にとっては、上ふたりの教育の方が面白かったにちがいない。

 兄や姉は、毎日、暗算の練習をさせられたという。暗算をさせたのは、父だった。食事前の数分のことだったが、毎日続けた。その父も、私や妹に関しては、どうでもよくなったらしい。戦時中で、余裕がなかったのかもしれないが、教育らしいことは、一切してもらえなかった。兄や姉に比べ、私と妹は計算能力が劣っている。小中学生の頃の私は、「私にも暗算をやってくれれば、計算が早かったのに」と親に文句を言ったものだ。

 父母からも兄姉からも、幼児期の私がどんなだったかの話は聞いたことがない。誰にも印象が残らない、ぼんやりした子だったような気がする。(2005年5月26日 記)

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