母が語る20世紀

  20. 米英に宣戦布告

 父が東北大学に赴任したのは、昭和12年7月。北京郊外で盧溝橋事件が起こったときに重なる。

 物理化学の新しい講座を作るから来て欲しいと言われて赴任したのだが、戦時色が濃くなり、講座の新設どころではなくなっていた。

 新しい講座「量子化学」は、予定よりかなり遅れて、昭和29年に出来た。量子化学が、ようやく世に認知されたのである。

 留学先まで決まっていたドイツ行きも、ご破算になった。ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発したからだ。

 こう考えると、父の学者人生は、不運だったような気がする。

 この項と次の項は、父がメモ書きした「七十余年を顧みて」を参考にしている。母からの聞き書きは、ほとんどない。

 新聞コピー(右上)は、昭和16年12月9日夕刊(朝日新聞重要紙面より)である。大本営陸海軍部発表「帝國陸海軍は今8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」が載っている。発表した時は、この短文が、後に、映画・テレビ・ラジオで何度も使われるとは、思いもしなかったろう。

 ハワイの8日は、日本では9日だから、真珠湾攻撃の直後に発行したと思われる。成果が華々しかったにもかかわらず、記事が地味なのは、まだ正式な数字が出ていないからではないか。

 当然のことながら、大学にも戦争の気分が漂ってきた。学生は授業そっちのけで軍事訓練をさせられ、大学を訪れる軍人も数を増した。軍人が威張りくさって嫌だったことは、父から何度も聞いている。赤い表紙の洋書を持っていて咎められた嘘のような話は、真実である。敵国・米英の洋書と間違われたのかもしれないが、実は、同盟国・ドイツの化学書だった。赤い表紙の本を持っているだけで「アカ」と疑われるなど、「嘘でしょう!」と言いたくなるが、本当だった。

 次第に、軍人が依頼してきた研究しか出来ない状態になった。父が引き受けた軍事研究の主なものは、「高射砲の延時薬」と「高濃度過酸化水素水の安定剤」である。

 高射砲の延時薬は、指定された時間に爆発するように調節する薬だが、湿気などのために途中で消えてしまうことが多かった。不発弾にならないように、途中で消えない薬を作れという命令だった。

 高濃度過酸化水素水の安定剤は、B29(左上の写真・仙台市戦災復興記念館発行の「7月10日の記録」より)に体当たりするロケットに使う目論見だったらしい。もちろんそのロケットは一度も使われないまま、終戦を迎えた。

 軍部の命令でやらされた高射砲に関する研究だったが、高射砲は、高度1万bを飛ぶB29までは届かず、しかもレーダーが不備で夜間飛行には対応できないとあって、実際には、なんの効果もなかった。出撃したB29は、33,000機。損失は、わずか485機にすぎなかった。

 末端の研究を何人もの大学教授にまかせ、総合判断は中尉か大尉がしていた。大学を出たばかりの中尉に専門的な判断が出来るはずがない・・と父は、手記の中で嘆いている。「こんな状態では負けても仕方なかった、負けてよかったのさ」と、私達子供にもよく話していた。

 学生は、戦地に行かされることはなかったが、理系の工場に動員されることになった。いわゆる学徒動員である。

 「軍部の都合で、あちこちの工場に回されてはたまらない」と考えた父は、新潟の二本木にある「日本曹達工業」に直接交渉して、東北大学の学生を一括して引き受けてくれないかと依頼した。工場は快諾したが、文部省はしぶしぶ了承したらしい。

 こういういきさつのある工場だったので、月に1度は、二本木の日本曹達を訪ねていた。私達が仙台空襲の思い出を語るときに、必ずこの会社の名前が出てくる。父が二本木から帰った直後に、空襲に見舞われたからだ。

 はたして今も二本木工場があるのだろうか。「日本曹達二本木工場」で検索したところ、立派な工場があった(上)。父が通った60年前と同じ名前で存在していることに、感激してしまった。工場敷地だけで21万坪もある大きな工場である。

 仙台に移った当初は堤通の借家に住んでいたが、昭和17年に北四番町のOさんの借家に移った。町内会長をしていたOさんが、配給物資の分け方に困っていた時に、父が「こんなのわけないですよ」と、計算尺で計算してあげたことから、Oさんと親しくなり、大家と店子の関係になった。

 Oさんは、茶道・裏千家の師匠でもあった。お茶を習い始めたのが先か、店子になったのが先か知らないが、昭和17年頃に、父は茶道の世界に入った。戦争中でも、優雅な世界はしっかり守られていたのだ。先日仙台に行ったときに、Oさん宅(右)を訪ねてきた。玄関の佇まいからおわかりかと思うが、今も二代目、三代目が跡を継いでいる。。

 私を可愛がってくれたというOさんご夫婦に、大学生の時に再会した。大学の茶道部に入部し、週に1度、Oさん宅に通うことになったからである。おばあちゃん先生は、私を見るなり「ハコちゃん〜」と目を細めて顔をなでてくれた。気恥ずかしかったが、3〜5歳の自分に会えたような気がした。

 何度も書いているが、写真が皆無に等しいので、写真から思い出をたどる作業が出来ない。市民図書館が送ってくれた戦前写真を見ていたら、戦災で焼ける前の東照宮があった。私の七五三は、ここにお詣りしたと聞いている。何も覚えてないので、なつかしさは感じないが、戦前の建物を見たい方がいるかもしれないので、載せてみる。

 この頃の写真で唯一残っているのは、伯父(父の兄)の葬式の時に写したものだ。伯父は日本鋼管で軍部相手の仕事をしていたので、羽振りは良かったが、接待などで多忙を極めていた。そんな伯父が事故で亡くなったのは、昭和18年12月のこと。

 右写真は一部を切り取ったものだが、父、母、兄、私と祖父が写っている。姉は離れたところにいる。妹は生まれていないが、母のお腹の中で育っている。母の前にいるお二人がどんな方かわからないので、顔がわからないようにした。

 この写真をみると、祖父(右下)が気の毒でならない。10年前に奥さんを亡くし、今度は長男を亡くした。

 東京で長男一家と暮らしていた祖父だったが、実の子供の家が良かったのだろう。ほどなく、次男(私の父)の仙台の家に来た。「おひでさん」というばあやも付いてきた。

 借家は広かったので、祖父用の部屋を用意することはできたが、博士にまでなった息子の家に、ねえやもいないし、贈り物ひとつ届かないので驚いたという。

 おひでさんは、姉や兄が手伝いをさせられているので、「お可愛そうに」と感じたらしい。広い廊下の拭き掃除は2人の仕事だった。私は、牛乳屋に牛乳を取りにいく日課だったという。もちろん覚えていない。

 祖父は毎日のように神社仏閣を訪ねていたが、秋頃から心臓を病み、昭和19年12月9日に亡くなった。奇しくも長男が亡くなった1年後の同じ日。81歳だった。祖父は、いい時に亡くなったのかもしれない。

 亡くなった昭和19年末頃の戦局は、逼迫していた。都市の食糧事情は悪く、「家族以外に、義父とばあやの食べるものを、どうやって手に入れるかばかり考えていたわ。お父さま(父のこと)は、闇市で買うのを嫌がったしね」と、めったに愚痴をこぼさない母から聞いたことがある。食糧事情は、終戦後の方が、もっとひどかったらしい。

 ガソリンも不足していた。遺体を運ぶにも自動車がなく、人力の荷車を借りてきた。警戒警報が頻繁に鳴るようになったのは、祖父が死んだ直後からだ。「オヤジが敗戦を知らずに逝って良かった」と、父はよく話していた。(2000年6月20日 記)
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